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富士山が話題を集めていますね。国内のみならず、インバウンドによる外国人登山者が急増しています。
日本といえば富士山、ですからね。外国人に、なぜ富士山に訪れたのかインタビューしているニュースを見ましたが、
「それほど高い山でもないのに、なぜそんなに人気があるのか、登ってみたくてね…」
と答えていました。
そりゃあ、あの裾野を長く引き、冬に冠雪した姿を美しいと思わない人がいるのでしょうか?姿が似ている山を「○○富士」というくらいですから。
外国の山々に比べれば低いですが、古くは神様として畏れ崇められ、文学や絵画の題材にもなってきたのです。
それに、日本では一番高い山ですから。日本人の自慢の山です。
しかし、登山者の増加に伴って弾丸登山やマナーの問題が噴出しています。来年度からは入山料を取ることが検討されているとか。
いや、景観や環境保護のためにはお金がかかるものですから、私は規制や料金徴収を是非やるべきだと以前から思っています。
ところでそんな富士山なのですが、指定文化財だったのを皆さん、ご存知でしょうか。
特別名勝「富士山」として、以前から文化財指定されていました。
そして世界遺産に登録するにあたり、史跡「富士山」として、山体はもちろん、周辺の遺跡がいくつか指定域となっています。
富士山に登るのは大変です。一度は登ってみたい、と思っている方も多いことでしょう。私も数十年前、まだ若い時に一度頂上まで行ったきりです。その時は史跡に指定されておらず、登って景色を楽しんだだけでした。
昨年、私は富士山にこそ登りませんでしたが、麓で史跡「富士山」に指定された場所を何か所か訪れました。今回はそのうち、山梨県側の「北口本宮浅間神社」を紹介します。
富士山周辺には浅間神社が多いのですが、ここは日本武尊が「富士山を拝むならここからにしなさい」と言った(詔を発した)ことからお祀りされた神社なんだとか。だからあくまで遥拝所(遠くからお参りする場所)であって富士山が御神体ではない、とのお話でした。
なんか不思議な話ですね。
ちなみに富士山を御神体としている神社はちゃんと別にあって、その神社も史跡「富士山」として境内地が史跡として指定されています。どこの神社なのかはいずれ。
さて、北口本宮浅間神社は富士吉田市内にあり、中央道河口湖インターからは15分ほどのところにあります。駐車場も無料で完備されていますので、安心してお参りできました。
参道は杉木立に囲まれ、静かで厳かな雰囲気を醸していました。
一の鳥居から賛同をしばらく進むと、数段の石段がありました。ここから本格的に境内地となる雰囲気です。
それもそのはず、江戸時代にはここに仁王門があったとのこと。
神仏習合の時代の名残です。今でも仁王門跡の礎石が残されていました。
そしてその傍らには富士山信仰の講(組織)である富士講の開祖、角行が岩の上で爪先立ちのまま三十日、立ったままでいる荒行をしたという「角行の立行石」がありました。
あまりの苦行の有様に、地元の人に修行を三十日で止められたという曰く付きの岩です。ちょっと眉唾物ですが、角行さんの生きた時代は伝説とするには新し過ぎる、江戸時代の初めころなんですよね。
本当にやったのかも…それなら驚きです。
境内は静寂が押し包み、神聖なる感覚が研ぎ澄まされます。
参道はやがて、小さなせせらぎを越えます。本来はここで心身を清め、神前に進んだのでしょう。そのせせらぎの名を「御手洗川」といいます。
川を越えれば二の鳥居があります。
その先にある随神門をくぐれば御神前です。
境内にある建物はほとんど江戸時代のものです。富士講が全盛だった時期、最大の講中だった「村上光清同行」によって再建されました。
拝殿もそんな建物の一つです。豪華な彫刻や軒下の奉納額がいっぱいある様子は、まさにそんな雰囲気を今に伝えています。
この神社には本殿の他に東宮本殿と西宮本殿があり、都合3棟の本殿があります。
東宮と西宮はもともとの本殿だったようで、本殿が建てられるたびに場所を移されました。
最も古いのが東宮本殿で、武田信玄が川中島合戦での戦勝を祈願して建てたとされています。
西宮本殿が本殿として建てられた際に移築されています。やっぱり、武田信玄が奉納した建物だから残されたのでしょうね。
西宮本殿は谷村城主 浅野氏重により16世紀末に建立されたものです。現本殿が建てられた際に移築されました。
旧領主を顕彰して、残されたのでしょう。結果的に古い神社建築が残ったのですからスゴイことです。
そして、北口本宮浅間神社の起源を考えると、この神社で最も重要で神聖な場所はおそらくここでしょう。それが北口本宮浅間神社の元宮、「大塚丘(おつかやま)」です。
西宮本殿の脇を抜け、祖霊社という小社を周り込んでさらに神社の裏手へ進み、約300mほど南方へ行ったところに、古墳のような塚があります。これが「大塚丘」です。
この塚が重要なのは、駿河から甲斐へ進んでいた日本武尊がここから富士山を遥拝した場所こそ、まさにココ!とされているからです。
この塚の上から富士山を遥拝したといわれています。神社をお参りしたなら、ここも必ずお参りしたい場所です。
塚上には日本武尊をお祀りした石祠がありました。
ただ、この塚は古代からの古いもの、ではなさそうです。
日本武尊は実在しなかったというのが定説だし、自然地形にしては不自然な盛り上がりだし、古代のものにしては周辺に似たような遺跡は聞いたことがありません。中世以降、信仰の施設として塚が築かれることがありました。そんな塚のひとつだと思います。
もう一つ、この神社は富士山の登山口、吉田口の始点でもありました。
富士山の登山口にはいくつかありますが、今では4ヶ所ほどしか残されていません。その代表的な登山道の一つに、山梨県吉田側から登る「吉田口登山道」があります。
今でこそ富士山は五合目まで高速バスでも登ることができるようになっていて、五合目から登るのが当たり前のようになっていますが、古くは交通事情が今ほどよくなかったので途中まで馬で行くか、あるいは最初から歩いて登っていました。
その吉田口の始点は北口本宮浅間神社の境内でした。古来はここで禊をし、登山を始めたそうです。
現在、祖霊社のあるところが吉田口登山道のスタート地点でした。大塚丘の前を通る道が、往時の吉田口登山道でした。
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富士山(平成23年2月・史跡 山梨県・静岡県)
富士山は古来より神聖視され、後世には文学や美術品の題材となりました。原始の時代から噴火を繰り返し、古代の記録にも度々の噴火が記録されています。その都度朝廷から「奉幣使」が派遣され、甲斐国司に鎮火の祈祷を行うように命じたとする『日本三代実録』の記録があります。戦国期には北口本宮浅間神社は武田信玄の庇護を受けていて、本殿が寄進されています。
江戸時代に入ると富士講が形成され、庶民が信仰の対象として富士山に登ることが行われるようになりました。この頃には麓に信仰登山者の拠点となる「御師」の集落も形成されました。富士山への信仰登山は江戸時代を通じて庶民にも広まって盛んになりました。
このように富士山は古代から近世、近現代に至るまで山岳信仰の在り方を考えるうえで重要であり、史跡に指定されました。