山梨県富士吉田市・史跡「富士山」 ー 吉田口登山道を歩く | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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ここしばらくずっと「史跡 富士山」を紹介しています。今回も富士山関連の史跡を紹介します。

 

「史跡 富士山」には登山道も指定地に含まれていますが、麓から山頂までのルートがすべて指定範囲となったのは山梨県側のルート、吉田口登山道だけです。

 

今回はその吉田口登山道を紹介します。といっても、すいません、時間的に二合目までしか登れませんでした。せめて五合目まで紹介したかったのですが今回は二合目まででご容赦ください。

 

吉田口の始点は北口本宮浅間神社境内にある、と前々回にお話ししましたが、神社境内にある「祖霊社」の位置から登山道は始まります。

 

北口本宮浅間神社祖霊社 吉田口登山道の始点

 

登山道は境内を出てすぐに、舗装された道に出ます。この道は県道となって中継地の「馬返」まで続きます。

 

ところが大塚丘の先、100mほど行ったところで舗装道から右手に折れると、かつて登山バス専用道だったという道が遊歩道となって整備されています。これが江戸時代の頃の登山道の雰囲気を伝えています。

 

北口本宮浅間神社裏手の登山道

 

大塚丘付近の遊歩道

 

ここから約6㎞、登山道は緩やかに登っていきます。さすが富士山の裾野、この辺りはまだ富士山はその牙を剥いてきません。清々しい空気に包まれ、林の中を散歩するように進んでいきます。

 

とはいえ歩くには結構な距離なので、今回は「馬返」まで車で移動しました。

 

馬返までは舗装道が続いています。途中の「中の茶屋」までは整備が行き届いています。直線に近い緩やかな登り道で、快適なドライブにうってつけの道でした。

 

いったん、中の茶屋で車を停めます。ここも吉田口登山道の史跡なのです。

 

中の茶屋は江戸時代の宝永3(1706)年に開業し、富士登山に向かう人に蕎麦などの軽食やお茶などを提供していたそう。今ではきれいな山小屋風の近代的建物となり営業していました。訪問日は営業期間外(営業期間:4月下旬~10月末)で開いてませんでしたが。

 

中の茶屋手前の県道

 

中の茶屋

 

江戸時代の昔から登山前の休憩所だったため、冨士講の人々が奉納した記念碑が多数残されています。

 

東京の講社が寄進した碑

 

中の茶屋に残る石碑群

 

さて、ここから道は毛色が変わってきました。

 

中の茶屋から馬返へ向かう道も県道なのですが、今までのきれいな舗装道路と違い、舗装は見られるものの荒れて穴だらけの悪路が始まります。

 

ここから傾斜もややきつくなります。

 

馬返へ向かう道

 

さらに馬返まで車で行きました。

 

馬返は車で登れる最終地点となります。中の茶屋から2kmほど、駐車場もあり登山シーズンには路線バスも週末だけですがここまで通ってきます。

 

その昔もここから道が険しくなるため、荷役の馬が登れるのもここまでとされました。そのため、「馬返」といわれるようになったそうです。

 

馬返には登山者用の駐車場もあります。私もここで車を降り、登山道を登っていくことにしました。

 

馬返

 

世界遺産に登録されるにあたり、荒れていた周辺を発掘調査し、キレイに復元整備したのだとか。往時の面影が甦っています。

 

馬返の史跡平面図

 

江戸時代には3軒のお茶屋があったそうです。今はそのうち大文司屋のみが経営を引き継いで現地で営業しています。

 

他の2軒は跡地が草地になって残っていました。

 

お茶屋の跡(鍋屋跡)

 

富士講が奉納した石碑が発掘調査で検出されているのですが、これらは倒れたり割れたりしていたものを修復・移設し、並べたものだそうです。

 

移設とはいえ、往時の雰囲気が伝わってくる景観ですね。

 

移設復元された石碑群

 

 

馬返には鳥居があり、本格的な登山道はここから始まります。

 

石造鳥居と登山道

 

 

 

 

鳥居の両側では狛犬でなく「猿」が私を迎えてくれました。

 

狛犬ならぬ「狛猿」?

 

「狛猿」?

 

その先にも建物跡があります。ここは「富士山禊所」といわれた建物のあった場所で、大正時代にはここで登山者が禊をして富士山に登ったのだそうです。

 

富士山禊所跡

 

江戸時代は北口本宮浅間神社で潔斎をしてから登り始めたはずなので、その頃の登山道は鳥居から真っ直ぐ登り始めていました。

 

禊所の基礎には、その時の登山道の跡がありました。

 

禊所の基礎に残る、江戸時代の登山道

 

 

新しい登山道はここを左へ行く道です。自然に優しい整備方法で整備されていました。

 

旧登山道はこの奥へ続いていて、堀割状の道が一合目まで続いていました。

 

一合目まで続く旧登山道

 

今回は登りは新道を、下りは旧道を歩いてみました。

 

 

傾斜はここから急にきつくなります。標高は馬返で既に1,450mあるそうです。

 

およそ40分ほどで一合目に到着しました。

 

一合目 鈴原社

 

まず目に入るのが上の写真のような崩れかけた山小屋風の建物です。

 

これが一合目に祀られた「鈴原社」という社でした。もともとは富士山の本地仏「大日如来」を祀っていたそうですが、江戸時代に入り天照大神と浅間大神を祀って神社の建物に改装したそうです。

 

今は仏像は麓に降りているようで、社も倒壊しそうです。世界遺産に登録されたので、整備改修する計画はあるようです。

 

 

社の前にある参道は旧登山道です。

 

一合目付近の登山道

 

鈴原社の参道

 

ここにも富士講寄進の石碑がたくさん並んでいました。

 

鈴原社前の石碑群

 

 

一合目を過ぎると道は古い登山道一本になりました。道際の斜面は崩落防止の石垣が溶岩で築かれ、古い雰囲気を伝えていました。

 

一合目から一合五勺までの道

 

一合五勺には大正時代、レッキス小屋といわれた山小屋があったそうです。今は跡地の平地が残るのみです。

 

一合五勺 レッキス小屋

 

「レッキス」とは大正期に販売されていた、乳酸菌飲料の商品名だったようです。

 

さて、今回の折り返し地、二合目に到着しました。一合目から30分ほどで到着です。標高は約1,700mあります。

 

二合目

 

到着してビックリ。いきなり目に入ったのは倒壊した木造建築でした。

 

倒壊した建物

 

 

これが、二合目にあった富士御室浅間神社奥宮(本宮)の拝殿でした。

 

辛うじて残っていたのは、社務所だったらしい建物のみです。

 

社務所らしい建物

 

世界遺産に登録されて10年経つとのことなので、このままにするわけではないでしょう。早急な整備が望まれます。

 

二合目にも石碑群が残っていて往時の雰囲気を伝えていました。

 

二合目にあった石碑群

 

やはり富士講が奉納したもののようです。どこの富士講が納めたのか調べたら面白いでしょうね。

 

石碑群

 

石塔の残骸

 

そして、小さな祠がありました。これは、富士河口湖町に里宮がある富士御室浅間神社の奥宮です。

 

今でこそココは富士御室浅間神社の奥宮とされていますが、本来はここが本宮でした。富士山をご神体としてここでお祀りしていたのです。

 

富士御室浅間神社 奥宮

 

今はお参りの便宜と文化財の保存のため、社務は里宮で行われ、もとの奥宮の建物は里宮境内へ移されており、ここには小祠のみが祀られています。

 

ここは今でも富士御室浅間神社の境内であることから、吉田登山道沿いは富士吉田市内に当たるのですが、二合目のこの一角は今でも富士河口湖町の飛地となっています。

 

この辺りまで来ると自然が豊かに残り、地形も厳しさを増します。私も野生のシカに遭遇しました。

 

他に人はいないはずなのに、斜面の上でガサゴソと何かが動く音がする。「心霊現象!?もしかして幽霊…」とか身構えていたら、目の前に雄シカが飛び出してきて登山道を横切り、斜面下へ逃げて行きました。

 

肝を潰しましたよ、熊でなくてよかった…。

 

 

次回は、この富士御室浅間神社の里宮を訪ねます。

 

 

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富士山(平成23年2月・史跡 山梨県・静岡県)

 

富士山は古来より神聖視され、後世には文学や美術品の題材となりました。原始の時代から噴火を繰り返し、古代の記録にも度々の噴火が記録されています。その都度朝廷から「奉幣使」が派遣され、甲斐国司に鎮火の祈祷を行うように命じたとする『日本三代実録』の記録があります。戦国期には北口本宮浅間神社は武田信玄の庇護を受けていて、本殿が寄進されています。

 

江戸時代に入ると富士講が形成され、庶民が信仰の対象として富士山に登ることが行われるようになりました。この頃には麓に信仰登山者の拠点となる「御師」の集落も形成されました。富士山への信仰登山は江戸時代を通じて庶民にも広まって盛んになりました。

 

このように富士山は古代から近世、近現代に至るまで山岳信仰の在り方を考えるうえで重要であり、史跡に指定されました。