新潟県長岡市・長谷川家住宅を訪ねる ― 豪農の家と三波春夫 | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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今回は前回に引き続き、越後の豪農を訪ねました。

 

そのお宅とは、新潟県長岡市にある長谷川家住宅

 

長谷川家は先祖が戦国武士と伝えられ、江戸期を通して塚野山村の大庄屋を代々務め、魚沼街道塚野山宿の本陣も兼ねていました。

 

邸の前はかつての魚沼街道が通っていて、往時の宿場の面影を残した街並みが道に沿って続いていました。

 

旧魚沼街道 塚野山宿

 

この塚野山は今でこそ長岡市内にあたりますが、平成の大合併前は三島郡越路町の一集落でした。

 

街道から外れたら、長閑な山村の風景が広がっています。

 

塚野山の風景

 

 

 

 

さて長谷川邸ですが、その敷地は堀と土塁に囲まれています。

 

まるで城跡のようですが、このような民家は決して珍しくありません。

 

これは戦国期の館がそのまま邸宅として残っている例で、先祖が戦国武士の家系とされるお宅ではよく見られます。

 

長谷川邸の堀と土塁

 

 

そのようなお宅はほぼ例外なく、地元で代々庄屋を務めたような名家です。

 

そもそも日本に残る古民家は、本当に普通のお宅だったものはとても稀です。

 

名家だったから資産があり、今まで維持できた、というのが実態ですね。

 

長谷川邸も例外ではなかったのです。

 

 

では、魚沼街道に面した表門から中へ入ってみましょう。

 

なお、この表門も重要文化財です。

 

表門

 

 

中へ入ると正面に主屋が見えます。

 

ちょっとタイミングが悪いことに、長谷川邸は現在屋根の吹き替えを含めた修繕工事が行われていました。

 

作業現場になっていたところ(ドマやチャノマの一部)が見学できなかったのは残念です。

 

主屋

 

 

ところで、主屋の左手からは座敷に面した庭園を通って裏手へまわることができます。

 

その入り口には中門が構えています。この中門は両脇に延びる庭塀と共に附指定となっています。

 

言い忘れていましたが、長谷川邸は敷地も含めてすべて重要文化財となっています。

 

そう、先に見た土塁や堀も重要文化財の物件なんですよ。

 

中門

 

中門は薬医門形式の簡素ながら重厚な造りです。庭園は後で見るとして、受付をし、主屋に上がらせていただきます。

 

出入口を入ると左手にヒロマがあり、正面はドマがあります。ヒロマの隣がチャノマですが、修繕工事のブルーシートが掛けられていて、一部見学できませんでした。

 

ヒロマ(上り口)

 

ヒロマ

 

 

そしてここで上を見上げましょう。家人の生活空間は天井が設けられないものなので、柱や梁、小屋組がよく観察できます。

 

これを見ないと建物すべてを見た気になれません。

 

主屋の小屋組

 

チャノマの小屋組

 

どうです、しっかりとして堂々としたこの太い小屋組。

 

こんな太い材を用意できるところに長谷川家がどれだけ豪農だったかがうかがわれるのです。

 

その奥にダイドコロ。

 

ダイドコロ

 

 

そしてコマ(小間)が続きます。

 

コマ

 

 

チャノマの脇には仏間。目黒邸と同様、立派な仏壇ですね。

 

仏間

 

 

そして長谷川邸が庄屋で本陣も兼ねていた名残として、やっぱり座敷部分がありました。

 

入口はこの式台です。藩の役人など、重要な来客用の玄関ですね。

 

式台

 

 

式台から上がったところは玄関の間と呼ばれています。床の間がありました。

 

なぜかそこには「るろうに剣心」の掛け軸が。

 

なんでも原作者の秋月伸宏氏がこの辺り出身なんだそうで。

 

私も週刊少年ジャンプで連載が始まったころ、しばらく愛読していました。だから驚きましたね。

 

玄関の間

 

 

ここから座敷部分の空間です。二の間(次の間)へ進みます。

 

その廊下に当たる部屋を「鞘の間」というんだそうです。

 

ここで役人に敵意がないことを示すために、帯刀を解いたんだそう。そういったわけでそう呼ばれたんでしょうね。

 

鞘の間

 

 

そして二の間。

 

二の間

 

 

お客になって二の間で待たされている気分になります。

 

その奥には上段の間が。ここが役人専用の接待の間になります。

 

上段の間

 

床の間や違い棚など、書院造を取り入れた上品で落ち着いた雰囲気の間です。

 

こういったところも目黒邸と同じですね。

 

書院窓は花頭窓になっていて、禅宗様式を取り入れた部屋になっています。

 

上段の間 花頭窓

 

このような来客用の部屋では釘の頭を隠すために「釘隠し」が使われるものですが、その釘隠しは今回の修繕のため一度取り外されていました。

 

展示されていたのでご覧ください。扇や菱形など、ブローチの様でなかなか洒落たデザインじゃありませんか。

 

釘隠し

 

 

飛翔する鶴もありました。こちらは精細な意匠で、これだけで絵になります。

 

釘隠し 鶴

 

 

そんな座敷部分なのですが、外観も書院造風で落ち着いた雰囲気です。

 

先ほどの中門から入った先が、その座敷の庭になっていました。

 

座敷部分 外観

 

座敷部分の庭園

 

 

この奥が隠居所として建てられたという「新座敷」です。

 

新座敷

 

“新”と付くから、明治時代に入ってから建てられたのかと思いきや、18世紀末の寛政5(1793)年に建てられたのだそうです。

 

それにしては材が細くて洗練されているし、にわかには信じられません。

 

新座敷 縁周り

 

 

新座敷 二の間

 

 

新座敷 上段の間

 

新座敷の1階は来客用の部屋で、造りは主屋の客間と同様です。

 

2階が生活の空間だったそうですが、2階は非公開で見ることができませんでした。

 

新座敷上段の間の奥には来客が使用した厠が残されていました。

 

新屋敷 上便所

 

畳敷き、便座の周囲は板敷になっていて、とても小綺麗です。

 

でも、私は和式のトイレが苦手で、上便所は今では使用禁止になっていますが、使用できても私は使用しないです。

 

 

さらにその先には井籠蔵(せいろうぐら)の入り口がありました。

 

井籠蔵 入口

 

家人が使うものをここに収納していたそうです。長谷川邸で現存する蔵の中で、現在も中まで見学できる蔵はここだけでした。

 

 

井籠蔵 内部

 

 

ひととおり建物を見学させていただいた後、ウラドオリを抜けて中庭に出ました。

 

中庭からは主屋を裏から見通せます。

 

裏手から見た主屋

 

屋根葺き替え中のための足場とブルーシートが掛けられてしまっているのは見学のタイミングが悪かったですが、いくつかの棟が組み合わさるような複雑な構造がよくわかります。資料では4棟が組み合わさっているのだそうです。

 

そして、江戸から明治にかけて建てられた蔵がここから一望できます。

 

中庭から一望した蔵群(左から井籠蔵、帳蔵、新蔵)

 

井籠蔵 外観

 

帳蔵

 

新蔵

 

 

新蔵の棟札が、主屋でガラスケースに入って展示されていました。

 

新蔵の棟札

 

「明治十四年己巳秋新築 土蔵三尺六間 長谷川市??久静君 御年六十六歳…」

 

なんとなく読めますね。新蔵の建築時期がわかる貴重な史料です。

 

長谷川邸はほとんどの建物の建築年代が明らかになっているので、他の建物にもこのような棟札が残っていたのでしょうね。

 

あるいは記録があるとか。なんにせよ、建築年代が明らかになる古民家は少ないので、長谷川邸はやっぱり貴重な民家なんです。

 

 

敷地の裏には裏門もあります。こちらも江戸時代享和4(1806)年建築で、附指定です。

 

裏門

 

これで長谷川邸のすべての建物を見学できました。

 

 

ところで話は変わりますが、この近所はあの演歌の大御所、三波春夫の出身地だったんですね。長谷川邸を訪ねて初めて知りました。

 

長谷川邸の西方に「昔ばなしとほたるの館(塚山活性化センター)」という施設があったのです。その敷地に三波春夫の銅像が建てられていたので、気になって見てきました。

 

三波春夫はここ、三島郡塚野山村(のちに越路町、現・長岡市)で生まれたんだそうです。

 

まさか、長谷川邸を訪ねるために来たのに、そんな場所に巡り合うなんて。

 

「お客様は神様です。」三波春夫の銅像

 

 

三波春夫といえば、「お客様は神様です。」のフレーズで有名です。しかしこの言葉も、今じゃカスタマーハラスメントを象徴するような言葉へと変貌してしまいました。

 

もっとも、この言葉は三波春夫の側からお客(ファン)に対して出た言葉なので、三波春夫の歌手としての心構えが一言に集約されていて、素晴らしい一言だと思います。

 

だから経営側がこの言葉の真意を噛み締めて語るなら、それは理解できます。

 

それなのに、これを客側が言うのは本末転倒ではないでしょうか。だからカスハラなんて言われるようになってしまうんじゃないかと、私は思います。

 

それはいいとして、昔ばなしとほたるの館では三波春夫の関係資料を常設展示していました。今でも、地元の人にとっては“地元の自慢”なんですね。そりゃそうでしょう。

 

それにしても「るろうに剣心」の作者、秋月さんといい、三波春夫といい、旧・越路町は偉人をいっぱい輩出しているんですね。

 

昔ばなしとほたるの館(塚山活性化センター)

 

 

三波春夫の銅像脇には顕彰碑も建てられています。

 

三波春夫顕彰碑

 

脇にあるボタンを押すと、三波春夫の代表曲「チャンチキおけさ」が流れてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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長谷川家住宅(昭和57年6月 重要文化財 新潟県長岡市塚野山)

 

新潟県長岡市から旧・魚沼街道を南下すると塚野山の集落を通過します。長谷川家は魚沼街道・塚野山の大庄屋を代々務め、塚野山宿の本陣も兼業していました。

 

戦国武士の出自と言われ、邸宅の敷地は今でも濠と土塁に囲まれた方形城館跡の様相を呈しています。

 

東辺は街道に面して表門があり、敷地内には主屋、新座敷、井籠蔵、帳蔵、新蔵が建てられ、西辺には裏門があります。建物のほとんどには棟札や普請の記録が残っていて、建築年代がほぼ明らかになっています。それによると主屋は享保元(1716)年、表門は享和2(1802)年、新座敷は寛政5(1793)年、井籠蔵は文化3(1806)年、帳蔵は文政13(1830)年、新蔵は明治14(1881)年に建築されました。

 

長谷川家住宅はその建築年代が明らかなことから、越後地方の豪農住宅の成立過程を考えるうえで重要な位置を占めており、また住宅の維持管理方法や使い方がわかることから研究上貴重なため、重要文化財に指定されました。