群馬県高崎市・多胡碑、多胡郡正倉跡を訪ねるー   古代多胡郡の風景を思い起こさせる | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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山上碑、金井沢碑に続いて向かったのは、上野三碑の最後の一つ、多胡碑です。

 

この石碑、三碑のうちでも最も内容が公的で具体的なんで、訪問前には毎回ワクワクするんです。

 

…実はこの碑、何度か訪ねたことがありまして。

 

なので今回は、新たに史跡指定された多胡郡正倉跡も訪ねました。

 

この遺跡も古代史研究においてとても貴重な発見になったと思うのですが、それについては後ほど。

 

 

 

多胡碑(保護覆屋)とその周辺(史跡指定範囲)

 

なにせ、正史と内容の共通性を持つ内容の石碑なんて、日本でもここだけです。

 

 

その石碑は鏑川の右岸段丘上のひっそりとした平坦地に、保護覆屋が建てられて保存されています。

 

周りを見渡すと、丘陵の尾根が幾重にも重なり広がっています。

 

これらの地は古代の正史『続日本紀』に記された甘楽、緑野、片岡の各郡が置かれた地域です。

 

 

さて問題の多胡碑は、保護覆屋のガラス窓越しにその姿を見ることができます。

 

多胡碑

 

 

そのざらついた表面から明らかに砂岩とわかる岩(牛伏砂岩)を豆腐のようにキレイに切り、同質の岩でつくられた笠が被せられています。

 

碑正面には、1,300年の年月を感じさせないほどはっきりと文字が読めます。

 

ただ、江戸時代に文字をはっきりさせるために加刻された文字もあるとか。

 

それでも状態がいいですよね。

 

表面には6行に渡って漢文が刻まれています。

 

 

多胡碑の碑面

 

その文は

 

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘

良郡并三郡内三百戸郡成給羊

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

宣左中弁正五位下多治比真人

太政官二品穂積親王左太臣正二

位石上尊右大臣正二位藤原尊」

 

とあります。

 

多胡碑の側面

 

 

碑は方柱形に加工されてますが、側面は特に何もありません。

 

今の石碑だったらこんなに厚くはしないだろうな、という感じですね。

 

残念ながら笠石には大きなヒビが入っています。

 

 

多胡碑については当然ながら様々な議論がされています。

 

主な議論は…

 

「弁官符」とは何ぞや?

「給羊」をどう読むか?

『続日本紀』和銅四年三月六日紀との日付のズレはなぜ?

 

ということでしょうか。

 

しかし、おおむねの内容は

 

「上野国の片岡、緑野、甘良(甘楽)の各郡から合わせて300戸を多胡郡としておく。その日付は和銅4(711)年3月9日である。」

 

ということです。

 

この記述が『続日本紀』の記述と合致することは重要なことです。

 

あまり専門的な話には入りたくないのですが、この史跡のすごい点はこの続きにあるので、もう少し語らせてください。

 

『続日本紀』和銅四年三月六日紀には

 

「上野国の甘楽郡の織裳・韓級(からしな)・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等(読み方は諸説あるが、ここでは「やまな」とする)の六郷を割きて、別に多胡郡を置く」

(釈文は前沢和之『古代東国の石碑』から引用・カッコ内は私の解説)

と書かれています。

 

この文章について、群馬県の古代史研究に金字塔を打ち立てた尾崎喜佐雄という有名な先生がいまして、この先生が現在の地名との照合で郷の位置をほぼ推定しているんです。

 

そのなかで大家郷の位置はわからなかったのですが、この先生、根拠を示して「大家は公(おおやけ)であり、『おおやけごう』は多胡郡衙のある郷を示しており、それは多胡碑のある周辺だ。」

 

という趣旨のことを述べたのです。

 

このままなら学説の一つだったのですが、去る平成23(2011)年、多胡碑の南約350mのところで礎石建物の跡が発掘されました。

 

その後の調査でこれが多胡郡の正倉跡であることが明らかになりました。

 

ここまで聞くと、大変な発見だったんじゃないか、と思いませんか。

 

「ここに郡衙があっただろう」という説が出されて、一部とはいえ、その通りに郡衙施設が出てきたんですから。

 

尾崎先生もすごいし、多胡碑の古代史研究の上での性格を決定づけるもう一つの遺跡の発見もすごいです。

 

 

そういうわけで続いてもう一か所、多胡郡正倉跡を訪ねました。

 

多胡碑と多胡郡正倉跡の位置関係(現地解説板から)

 

多胡碑からはそれほど距離はありません。

 

遺跡は小さな川が造る谷地を越えた対岸の平坦地にあります。

 

遺跡の整備は今後の課題のようで、今は解説板のみ建てられています。

 

遺構は2ヶ所から見つかっており、まず正倉跡から訪ねました。

 

礎石建物跡(上図の正倉跡)付近

 

もともと田んぼだったようです。

 

今は遺構保存のため、休耕田になっています。

 

礎石も埋められているようです。

 

ここからもう少し北寄りの、小谷地に向かう斜面上部に法倉跡があります。

 

礎石建物跡(上図の法倉跡・南から)

 

ここから北方を望んだ先、谷地の対岸に多胡碑があります。

 

その後ろには山上碑や金井沢碑がある丘陵が見えます。

 

法倉跡付近から多胡碑方面を望む

 

草に埋もれてはいますが、ここでは建物跡の礎石が地面から顔を出していました。

 

 

法倉跡の礎石(南西から)

 

 

中央の記録との整合性、その記録を証明する遺跡の所在、遺跡同士の有機的なつながり。

 

多胡碑と多胡郡正倉跡は、古代の風景をありありと思い起こすことができる本当に見ごたえのある遺跡でした。

 

 

 

 

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多胡碑(昭和29年3月・特別史跡 高崎市吉井町池)

多胡郡正倉跡(令和2年3月・史跡 高崎市吉井町池)

 

多胡碑は上野三碑の一つで、付近から産出する牛伏砂岩を方柱形に加工し、笠石を乗せています。碑文のある面は特に平滑に加工されており、そこに6行に渡って碑文が刻まれています。碑文は本文に記載したので、ここにはその釈文を2説、紹介します。

 

「弁官符(おお)す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡并(あわ)せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月甲寅に宣(の)る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。」

(東野治之、『群馬県史』通史編2・第二章第二節 より引用、カッコ内は私がフリガナを振る)

 

「弁官が上野国・片岡郡・緑野郡・甘良郡に符(おお)すに、三郡の内の三百戸を并(あわ)せて郡を成し、羊が給わりて多胡郡と成すなり。和銅四年三月甲寅のことなり。宣(のり)たまいしは左中弁正五位下多治比真人なり。太政官は二品穂積親王、左太臣は正二位石上尊、右大臣は正二位藤原尊なり。」

(前沢和之、『古代東国の石碑』より引用)

 

ここでは、先に述べた「弁官符」、「給羊」について述べます。

「弁官符」は、一時はそういう符があった、ともされましたが、文献史の研究が進んで「弁官符」とするなら「太政官符」などと書かれるはずだ、ということになって今では「弁官」が「符(おお)す」と読む、という説が定説になっています。

 

また「給羊」については「羊」が、「辛」の間違い、とか、「未」とつながりで方位を現す、という説もありましたが文脈がおかしくなるのでやはり人名であり、渡来人ではないかという説に落ち着いています。これに関しては地元に羊大夫の伝説もあり、関連が伺われます。

 

内容については和銅四年三月の多胡郡建郡の記念碑で、『続日本紀』の記述を裏付けるものとして周辺の敷地を含めて特別史跡に指定されています。

 

なお『続日本紀』との日付のズレの問題もあり、研究の余地が残されています。

 

そして多胡郡正倉跡は平成23(2011)年~平成28年(2016)年にかけて瓦や礎石建物跡、区画溝跡が発見され、ここが多胡郡の正倉跡であることが明らかになりました。多胡碑との関連性を含めて重要性が認められ、令和2(2020)年3月、国の史跡に指定されました。今はまだ史跡整備が進んでおらず見どころはありませんが、いずれは整備が進んで多胡碑と合わせて古代史を感じることができる空間ができるだろうと期待しています。

 

 

参考文献:

和歌森 太郎・監修『日本史跡辞典』1・東国編、秋田書店(1977)

前沢和之『古代東国の石碑』日本史リブレット 72、山川出版社(2008)

関口功一・東野治之「多胡碑と金井沢碑」、『群馬県史』通史編2 原始古代2 第二章第二節、群馬県(1991)