毎度ご覧いただき、ありがとうございます。
今回は新潟県魚沼市にある、目黒家住宅を訪ねました。
前回訪ねた佐藤家住宅のすぐ近所にありますが、佐藤家が「中農」だったのに対し、こちらは「豪農」といわれたお宅です。
だからデカい。とにかくデカい。
とにかく訪ねてみましょう。
佐藤家住宅から山を下っていくと、目黒家住宅があります。
旧守門村が目黒家にどれだけ力を注いでいたのか、を目の当たりにします。
観光客向けの広い駐車場がある。資料館もある。
資料館があるということは、目黒家だけでそれだけの展示内容があるわけですから。
あとで分かったことですが、目黒家が資金を提供して旧守門村が整備したんだそうです。どれだけ資産力を持っていたのでしょう…。
資料館からもう少し下ったところに目指す目黒家住宅があります。まず先に民家の方へ行ってみました。
大きすぎて全体を捉えるのがなかなか難しいです。
中門だってこの迫力…。我が家はマンションの一室なのですが、中門だけで我が家くらいの広さがありそうです。
そして、このような名主クラスのお宅なら必ずある、来客用の入り口・式台も要チェックです。この場合の来客とは藩のお役人などの重役クラスの客のことです。
この奥の部屋が客間なので、たいていは装飾が豪華でキレイなんですよ。
きっと見事なものなので、それは中へ入ってからのお楽しみで。
さあ、中へ入ってみましょう。
ドマへ入るとまずは囲炉裏のある板の間がありました。これがダイドコロで、板の間は炉地といいます。
カマドがあります。
ダイドコロからドマを見ました。広いドマですね。
ダイドコロの向かいにあるのが、家族の居室であるチャノマです。
大家族だったのでしょう、広い部屋です。
チャノマの隣には仏間がありました。大きな仏壇です。
その隣にあるのは「槍の間」と呼ばれている部屋でした。
天井には槍掛けがあります。来客に武器を置いてもらうようになっているのですね。
ここが式台から入った部屋になります。つまり、ここからが来客用の部屋になるのです。続いては中の間です。
見てください、畳敷きで天井も高いです。上品なおもてなしの空間です。
その上品さは欄間や釘隠しなど、細かな装飾の部分に特に現れています。
これは梅の木をあしらった欄間。
こちらは五葉松ですね。質素で繊細な感じを受けます。
その奥にあるのが、奥座敷です。床の間や違い棚があって、書院造りを基調とした部屋です。
質素でありながら上品があり、それらが格式を与えており、お客様をお迎えするのにふさわしい部屋になっています。
広いお宅なので、どんどん見ていきましょう。
この奥に明治時代に建てられた新座敷があります。2階建ての茶室で、橡亭(ちょてい)と名付けられています。
中から行くことができるのですが、先に外観を紹介します。
では、橡亭の室内を見学しましょう。主屋からだと裏中門(後年は寝所として使うために改装され奥の寝間、新寝間となりました)から入ります。
そして、これが橡亭の座敷、新座敷です。
主屋より洗練された、茶室風の造りになっていました。
すっきりしているので、清々しさを感じます。
おもてなしのため、茶室としても使われていたので露地があります。路地に置かれた赤味がかった石は銘石の「佐渡の赤石」だそうです。この大きさのものは、当時でも高価だったそうで、今はなかなか手に入らないとのこと。
ここでも目黒家の資産規模がわかりますね。
そして新座敷。
新座敷の奥には茶室らしい四畳半も見られました。
ところで、目黒邸は主屋と橡亭だけが指定文化財ではありません。宅地や蔵、敷地内のお社や庭園も指定対象になっています。
どんなものなのでしょう。
下の写真は主屋前にある敷地の石垣と水路です。
民家の構成要素として重要だとして、一体のものとして指定・保護されています。
同じ理由で、庭園も含まれています。敷地内には大きな池泉回遊式の庭園があります。
橡亭にも小規模ながら石組が見ごたえある庭園が。
お茶が欲しくなりますね。
そして裏手にはサヤ(雪対策のため、蔵を囲うように板で造られた壁)で囲われた中蔵がありました。
中蔵の手前にある池は、融雪用の池なんだそうです。
その隣には、壊されて跡だけになった新蔵の跡も。
そして庭園の奥にある朱塗りの鳥居の先には石祠、そして石動社があります。
これはお宅の鎮守として祀られていたのでしょう。
これで、目黒邸の指定物件をきっちりすべて見てきました。
この後、資料館を訪ねて目黒家のお話をいろいろ聞かせていただきました。
県内で最初に自動車を購入したのが目黒家。2番目が県庁だったとか。
県内で電話を導入したのも早く、電気を引いたのも早かったと。
明治から大正時代にかけては、当時一定額以上の納税者しかなれなかった帝国議会の衆議院議員に、親子二代に渡ってなったそうです。
道路を引くにも、鉄道を引くにも資金援助をしていて、村に多大な貢献をした家として、村民は感謝しかしていないそうです。
現在の当主は東京にお住まいで、金融関連の会社にお勤めですが、旧守門村のために今でも時々帰郷されていて、お墓の管理などをされているそうです。
目黒家はやはり戦後の農政改革で急速に衰退し、やがて広大な宅地や家屋を維持できなくなってしまいました。
そこで目黒さんは活用してほしいとこれらを村に寄贈されたそうです。その際に貴重な民家として文化財に指定して保護してもらおうという話になりました。
そして文化庁の調査官が視察に来たそうなのですが、言った一言がコレ↓。
「農家らしくない。」
目黒家は名主の家だったので小作を抱えて農地運営をしていましたが、自ら田畑を耕作していたわけではありません。
家に農具がない、と。だから農家らしくないので指定できない、と言われたそうです。
今だったら「はぁ!?」となる話です。どこ見てるの?ちゃんと調査しろよ。
そこでまずは県指定文化財に指定することになり、新潟県指定文化財となりました。そして村中に声を掛けて、農具や民具を集めて邸内に並べたんだそうです。
そうしてやっと、国指定文化財になったんだとのお話でした。
笑い話ですね。
そうやって集まった農民具が、同じ敷地内に建てられている守門民俗文化財館で展示された、膨大な量の民俗資料なんですって。
そんな背景の話も聞けて、とてもおもしろかったです。
守門民俗文化財館は、目黒家の資料館とはまた別の資料館です。しかし目黒邸と同じ敷地内に建っています。
こんな経緯を持って集められた農民具なので、ぜひ一緒にご覧ください。3館(目黒邸、目黒家資料館、文化財館)共通券を購入すればちょっとお得になりますよ。
-----------
目黒家住宅(昭和49年2月ほか 重要文化財 新潟県魚沼市須原)
目黒家は近世初期から当地に住まい、代々庄屋を務めた旧家です。目黒家住宅は新潟から旧守門村内を通り会津方面へ抜ける旧会津街道沿いに建てられています。
この住宅には建築当初の普請帳や棟札が残り、母屋の上棟が寛政9(1797)年であることや中蔵が明治4(1871)年、石動社が享保14(1729)年の上棟であることが明らかになっています。主屋は桁行16間、梁間6間、正面西寄りに入母屋破風を持った中門を、裏手右寄りに寝間となっている裏中門を取りつけています。裏中門に接続して明治時代に建てられた橡亭と呼ばれる新座敷が建てられています。
中門造りの典型的な豪農の屋敷で、普請帳や棟札、古図などの建築資料が良好に残されていて、敷地内の建物や構造物も揃って保存されている点などが貴重なことから重要文化財に指定されています。