『都道府県魅力度ランキング』というものが、毎年話題にになりますね。
そして、今年も北関東の3県(群馬県、栃木県、茨城県)が40位以下であることが話題になりました。
毎年のことですが、北関東は魅力度ランキングが低いです。
しかし、北関東に魅力がないのか、といえば、そんなことはない、と私は思うのです。
私は埼玉県民ですが、北関東へ遊びに行く(私の場合、文化財を訪ねていくことですが)と興味深いものがいっぱいあります。
史跡とか文化財ばかりしか思いつかないのが申し訳ありませんが、それでも北関東には他県にはない魅力があります。
特に群馬県は、古代には強大な権力を持った豪族がいて、様々な最先端の文化を吸収していたとされているのです。
しばらくはまず、そんな群馬県の魅力が溢れる遺跡を紹介していきたいと思います。
今回、紹介するのは日本でも稀有な、古墳とその墓碑とされる石碑の組み合わせの史跡、「山上碑および古墳」です。
場所は群馬県高崎市の郊外になります。
結構山の中です。「山上」碑といわれるくらいですから。
古墳の隣に、墓碑とされる石碑があります。
こんな例は日本でここだけ、唯一の例です。
だから日本で唯一、被葬者が明らかな古墳ともいえるのです。
今回、私は自家用車で訪問しました。
山の麓に専用駐車場がありますので、そこに車を止めて歩きました。
山上碑へ登る道は急な階段でした。
しかしこの程度の階段、その先に史跡があるとなれば屁でもありませんよ。
その先に史跡があるなら、そこそこな登山だってするんですから。
↓過去にも、こんなところへ行っています。
石段を登り切れば、そこに新しい三角屋根(寄棟造?)の建物と、横穴式石室のある小さな円墳が現れます。
これこそ、目的地の山上碑の覆屋(保護建物)と山上古墳です。
山上古墳は横穴式石室のある山寄式なので、古墳時代も終末期の7世紀後半のものとわかります。
その墓碑といわれている山上碑とはどんな石碑なんでしょう?
いよいよご対面です。
細長い大きな河原石、といった感じの石に文字が刻まれていますね。
自然石の平らな面を選んで刻文したようです。
決して上手な字、とは言えませんが文字は読めます。
「辛己歳…三日に記す 佐野三家……長利僧母?記す?文也 放光寺僧」
7世紀の辛己年ということで、建碑は681(天武天皇10)年とされています。
字が上手かどうかより、既に漢字、漢文を知っていて石にに刻むこと自体、当時としては先進的ではありませんか?
そして隣にあるのがその放光寺の僧、長利の母親の墓とされる山上古墳です。
見事な切石積みの横穴式石室です。
石をここまで丁寧に加工する技術、それらを狂いもなく積み上げる技術。
古代にこんな技術を持った人々がここ群馬県で活躍したことを考えてみてください。
そして玄室に入りました。
実は、ここを訪ねたのは真夏も真っ盛り、猛暑日の続く8月半ばでして。
天井にカマドウマの大群が見えます…
カマドウマが降ってこないことを祈りながら、それでも入らずにいられないマニア魂…
玄室内には石仏が祀られています。
壁面や天井は、地元から産出する凝灰岩を丁寧に加工して積んでいます。
群馬県にはこんな高度な技術を使った横穴式石室の古墳が多くあります。
それだけでも「なぜ中央から遠いこの群馬の地に、そんな技術があったの?」と、とても謎めいていて不思議ではありませんか。
そのうえ、隣には墓碑とされる古代の石碑が!
ちなみに山上碑、日本に残る石碑では2番目に古いそうです。
そんな遺跡を持つ群馬県、もっと自信をもって世間に発信したらいいんじゃない?
と思っているのは私だけではないはずです。
ただ、現在の研究では山上碑は山上古墳の「墓碑」ではないという説もあります。
仏教の教えでは、霊魂のみが地上の仏土である寺院に集まるので、僧侶が古墳を造ってそれに墓碑を建てるのは矛盾している、と考えられるのだとか。
だから石碑は墓碑ではなく、古墳の被葬者である母親を追善供養する目的で有力寺院の僧となった息子が建てたもの、と考えるのが妥当という説が有力なようです。
それでも古墳の被葬者が明らかになるのは珍しいです。
この石碑が持つ重要性は他にもあって、文中の「放光寺」については、前橋市内で発見されている「山王廃寺跡」とされています。
ここからは「放光寺」とのヘラ書きや「放光」と押印された文字瓦が見つかっているのです。
寺院跡の遺跡の寺の名前が明らかになっていることや、その寺にいた僧侶の名前、その系譜などがここまで明らかになる場所って日本全国を見渡してもここだけなんです。
それだけでも群馬県民は誇っていいんじゃないですか?
興味深いですねぇ。
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山上碑および古墳(昭和29年3月・特別史跡 高崎市山名町)
高崎市郊外には「上野三碑」と呼ばれる古代の石碑が集中して所在します。山上碑はその一つで、書体や文中に現れる寺院との関係から7世紀のものとされ、碑文の冒頭にある辛己歳は681(天武天皇10)年と考えられています。
碑文は
「辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧」
とあり、今でもはっきりと読み取ることができます。
隣にある山上古墳は横穴式石室を持つ山寄式の古墳です。石室は載石切組積両袖式で高度な技術を見せています。これらのことから古墳の築造年代は古墳時代終末期の7世紀中頃と見られています。
石碑と古墳はその年代観が近いため、古くは江戸時代から注目され、墓碑を伴った古墳の日本唯一の例と見られていました。しかし、古墳の築造と石碑の建立は数十年の開きがあり、最近ではもっと研究が進んで墓碑ではなく追善供養のために建てられた石碑とか、さらには単純に結び付けられないとする説も見られ、一概に一つの遺跡ではない可能性もあります。しかし、本文でも記した通り山上碑は古代の金石文として注目する内容を含んでおり、今でも盛んに議論されています。近年では世界記憶遺産にも選定され、訪れる人が増えています。
参考文献:
『日本史跡辞典』1・東国編、和歌森 太郎・監修、秋田書店(1977)
『古代東国の石碑』日本史リブレット 72、前沢和之・著、山川出版社(2008)