新潟県長岡市・馬高遺跡出土品を訪ねる ― 岡本太郎でなくても爆発した、かも!? | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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今回もご覧いただき、ありがとうございます。

 

さてさて、「田代の七ツ釜」はいかがだったでしょうか。

 

 

絶景といったら、それを見るために「高い山に登る」、「深い谷を沢登りする」みたいなアドベンチャー的な冒険の後に辿りけるばかりのイメージがありませんか?

 

そんなことをしなくても、国指定文化財を巡っていると比較的安全に、絶景に出会えることが多いのでやめられません。

 

そしてたまに銘品・名品にも出会うことがあります。

 

今回訪ねたのも、あの名品を生み出したことに関係した、しかもアレが国宝になったのはこれがあったからだろ?的な、そんな文化財なんです。

 

その名も「新潟県馬高遺跡出土品」

 

「あの名品」って何?「アレ」ってなによ!?

 

と本記事に興味を持っていただければ狙い通りなんですけどねぇ…

 

 

それでは行ってみましょう!

 

まずは、東京上野の国立博物館に行きましょう。そこで時々展示されているこちらの土器、どこかでご覧になったことがあるのでは?

 

 

「ああ、よく歴史の教科書とかに載っているやつね。縄文土器でしょう?」

 

とおっしゃられる方、多いと思います。

 

そうです、火焔型土器と呼ばれる、新潟県内の信濃川流域でよく出土する縄文土器です。

 

こちらの土器は重要文化財にはなっていませんが、造形のすごさ、すばらしさは超一級の品です。

 

 

 

しかし最近はすっかり笹山遺跡出土品の国宝土器のほうが有名になってしまいました。そう、先に述べた「アレ」ですよ、アレ。笹山遺跡の出土品は昭和の終わりに初出土したので、それまではこちらの土器がよく紹介されていました。

 

国宝にその地位を奪われてしまいました。

 

 

こちらの土器を有名にしたのが、昭和45(1970)年に開催された大阪万博で「太陽の塔」をデザインした、あの岡本太郎氏だとか。

 

「芸術は、爆発だー!」

 

と、そのインスピレーションを得たのは、この土器を見たからだとのこと。「あの名品」とは、太陽の塔のことです。

 

だから太陽の塔はどことなく縄文土器に似ているんですね。

 

 

 

ところで、もともと火焔型土器という言葉は学界の公式用語ではなかったそうなんです。

 

火焔土器というのは、下の写真の土器、それ単体に対する通称でした。

 

火焔土器

 

そう。この土器こそ、元祖「火焔土器」なのです。

 

 

 

火焔土器

 

そして、この土器が展示されているのが、新潟県長岡市にある「馬高縄文館」なのです。

 

そんなわけですから、ぜひ元祖「火焔土器」が見てみたい。見なければ笹山遺跡出土品について語っても片手落ちになってしまう…

 

というわけで次は新潟に向かいましょう。

 

 

 

 

関越自動車道の長岡インターチェンジは、東京方面からは最後のインターチェンジになります。そこから国道8号線・長岡バイパスを西へ進むと10分ほどで左手に馬高・三十稲場遺跡があります。こちらの遺跡も国指定史跡となっていて、遺跡公園として整備されています。

 

この遺跡公園内で馬高・三十稲場遺跡出土品を展示しているのが、「馬高縄文館」です。入口に縄文土器をイメージしたモニュメントが置かれているのが印象的です。

 

馬高縄文館

 

中に入ります。目玉の火焔土器は展示室入口の一番目立つ位置に置かれています。この土器を含めた馬高遺跡出土品の土器・石器400点が重要文化財に指定されています。

 

 

火焔土器

 

この土器、見た目が派手なだけに当初は教科書などにもよく紹介されました。

 

その頃はまだ文化財に指定されておらず、教材として貸してほしいという要望も結構あったそうです。当時この土器を所有していた長岡市立科学博物館の館長は

 

「馬高遺跡を知ってもらうためにもいい事だろう。」


と、結構気前よく貸し出していたそうなんです。しかし、まだ文化財保存という認識が薄い時代。

 

乱暴に扱われたこともあって劣化が進んでしまいました。ときには勝手に型取りをされ、器の表面がひどく荒れて返却されたこともあったそうです。泣きたくなったとか。

 

だから当時の館長は馬高遺跡出土品が重要文化財に指定された時、「やっとその価値が認められた」と感無量だったそうです。

 

古い新聞で読んだ内容ですので、出典も明らかにできず申し訳ありません。ただ、そんな新聞記事を読みました。

 

言われてみればこの土器、ひどく表面が荒れてます。そんな過去があったためなんですね。

 

他にも、火焔土器と一緒に出土した火焔型土器がありました。

 

 

火焔型土器(A式2号)

 

火焔型土器(A式2号)

 

火焔型土器(A式2号)

 

上の写真3枚は、いずれも同じ土器なんですよ。ちょっと角度を変えただけで、見え方が全然違うでしょう?おもしろいです。

 

だから芸術的といわれるんですね。これを日常の調理や貯蔵などに使ったというのですから、現代人の私にとっては不思議な感じです。

 

ちなみに火焔型土器の名称は、馬高遺跡の調査以降に研究が進められて、縄文時代中期の信濃川流域を代表する型式として定着していくことになります。

 

 

火焔型土器

 

 

火焔型土器(別角度から)

 

器形だって深鉢形のほかに、浅鉢形も出土しています。

 

 

浅鉢形土器

 

 

浅鉢形土器(別の角度から)

 

 

そして馬高遺跡では、というか馬高遺跡に限らないのですが火焔型土器とは意匠が違う、それでいて口縁の付き上がるような突出した装飾が特徴な土器も出土しています。

 

こちらの土器はその装飾が王冠のようなことから「王冠型土器」と呼ばれています。笹山遺跡出土品の中にも王冠型土器が見られます。

 

 

王冠型土器

 

 

王冠型土器(別角度から)

 

火焔型土器の系統なんでしょうか?それにしては細かい突起や袋状の装飾があまりなく、火焔型土器とはまた違いますよね。

 

また、火焔型ではない深鉢形土器も出土しているんですよ。例えば…

 

 

深鉢形土器

 

 

深鉢形土器(別角度から)

 

こちらの土器は上半部の渦巻や下半部の縦の文様が特徴的です。竹を縦割りにした道具(竹管)で描かれた紋様ですね。渦巻文は信濃川流域より長野県や山梨県の八ヶ岳周辺で出土する土器の特徴のような気がしますね。

 

 

他にも、

 

深鉢形土器

 

こちらの深鉢形土器も、装飾はずいぶんシンプルです。別の地域の様式な気がします。さらに…

 

 

深鉢形土器

 

「栃倉類型」とあった土器です。新潟周辺の火焔型土器と同時期の土器らしいです。文様の形が全然違いますよね。長野県の中信方面の影響を受けているのではないか、とされているようです。

 

 

深鉢形土器(別角度から)

 

「やっぱりそうだよね。山梨や長野に行くとよく見られる藤内式や曽利式っぽいもん。」

 

…文化財を見て回っていると、生半可な薄ら知識が徐々に身についてきます。

 

 

深鉢形土器

 

こちらは「塔ヶ崎類型」と紹介されていた土器です。塔ヶ崎類型も新潟周辺で見られるものらしいです。東北方面の影響を受けているとされているようです。

 

そしてそして…

 

浅鉢形土器

 

浅鉢形土器(別角度から)

 

これは完全に東北地方の土器だそうです(大木10式)。

 

東北方面から持ち込まれたことになりますね。物々交換で流れ流れてきたのか、東北方面から移り住んだのか、いずれにしろ東北方面との交流が窺われる遺物です。

 

 

まだまだあります。

 

浅鉢形土器

 

こちらの浅鉢形土器は関東地方の影響を感じます。口縁の作り方や縄目、渦巻の付け方に加曾利E式っぽさを見受けます。加曾利E式ではないですけどね。

 

 

土器ばかり紹介してきたので、他の出土品も紹介します。これらも重要文化財ですよ。

 

 

土偶

 

 

土偶(別角度から)

 

板状の土偶ですが、頭の部分が袋状だったのか前に突き出ていますね。群馬県から出土したというハート型土偶に通じている気がします。

 

右手だけに穴が開けられているのも何か意味があるのでしょうか。

 

 

 

土偶は欠損した破片らしいものがたくさん出土しているようです。

 

 

土偶片

 

 

耳飾もいっぱい展示されていました。

 

 

耳飾

 

 

あと、何の目的で造られたのか、説明がなかったのでわからなかったのですが三角状土版というものが展示されていました。

 

三角形土版

 

また、これもここで初めて見たのですが、三角壔(とう)土製品というものも展示されていました。

 

 

三角壔土製品

 

ほかには磨製石斧や打製石斧、石器、石皿と磨石なども重要文化財になっています。これらは他の博物館でもよく見かけるので、あまり珍しくないですけどね。

 

 

磨製石斧

 

打製石斧

 

 

石槍

 

石皿と磨石

 

 

ところで、重要文化財にはなっていませんが、火焔型土器以前の在地系土器が展示されていました。

 

火焔土器以前の在地系土器

 

火焔型土器が生まれる前にはこんな土器があったのだとか。ここからどうやって火焔型土器が生まれたんでしょうね?不思議だし、調べてみたらおもしろいかもしれませんね。

 

 

 

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新潟県馬高遺跡出土品(平成2年6月 重要文化財 新潟県長岡市関原町)

 

馬高遺跡は信濃川中流域の左岸に張り出す関原丘陵上の北緩斜面に位置します。小さな谷をはさんだ西には三十稲場遺跡(縄文時代後期)が所在します。この2つの遺跡は明治時代から遺物が採集されていて、昭和10(1935)年から昭和16(1941)年まで地元の近藤篤三郎らによって馬高遺跡の発掘調査が行われました。「火焔土器」と称された土器は昭和11(1936)年、馬高遺跡7号地点の住居跡から押しつぶされた状態で発見されたもので、火焔を連想させる把手、および平縁部に見られる鋸歯状文の存在から、報告書の中で「火焔土器」と記されていました。戦後に研究が進み、この意匠が見られる土器は新潟県から福島県西部に分布していることが明らかとなり、それらの土器は「火焔型土器」と呼ばれるようになりました。馬高遺跡からの出土品は出土の歴史が古く、火焔形土器の基準として学史的・学術的価値が極めて高いために重要文化財に指定されました。