今回もご覧いただき、ありがとうございます。
前回は新潟県長岡市にある「新潟県馬高遺跡出土品」を紹介しました。
それは「火焔土器」と呼ばれる、独特な形態をした縄文土器を中心とした縄文時代の遺物でした。いまや火焔型土器といったら、縄文土器の代表たる土器。「縄文土器といったらコレ!」的な、異形の土器です。
土器の方がインパクトが強いので先に紹介してしまいましたが、火焔土器が出土した遺跡だってやっぱり見たいじゃないですか。
なので今回は遺跡の方を訪ねました。
その遺跡は火焔土器が展示されていた「馬高縄文館」の目の前にあります。
史跡公園となって保存された、その名も「馬高・三十稲場遺跡」。
遺跡は埋め戻されていますが、復元住居などの見所がありました。
馬高・三十稲場遺跡は「馬高遺跡」と「三十稲場遺跡」という、2つの遺跡の総称です。両遺跡は谷をはさんで隣り合っています。
縄文館を出て、まず目の前に広がっている芝生の広場が馬高遺跡です。
こちらからは馬蹄形に広がる集落が発掘されていて、北のムラと称されています。もちろん、南のムラもあります。それは後ほど。
遺構は芝生広場の下に埋め戻し保存されていて、見られません。その代わりに2棟の復元住居が見られます。
まずは1棟目。復元竪穴式住居です。
中には入れませんが、入り口をふさぐ扉の隙間から中を覗くことはできました。
ちょっと痛々しい状態です。
床が水没しています。水ハケがよくないのですね。早急に対策しないと柱が腐ってしまいますよーーー。
続いては縄文館寄りに建てられた平地式の復元住居です。この位置から柱穴群が見つかったそうで、このような建物が建てられていたのではないか、とのことでした。
こちらは中に入ることができました。
小屋組とか、古民家とあまり変わりませんね。まあ、現存する古民家から推測して復元されているわけですから当たり前ですよね。
北のムラの見所、というか馬高・三十稲場遺跡の見所はこのくらいです。他はすべて埋め戻し保存され、芝生広場や雑木林になっています。
一応、どんなところか見に行ってみましょうか。
まずは南のムラ。縄文館の裏手にあたります。
こちらにも馬蹄形に広がった、典型的な縄文時代の集落が見つかっているそうです。しかし今は全く芝生広場です。
南のムラから三十稲場遺跡へ向かってみます。一度谷へ下ります。
この谷は小さな沢が台地を侵食して形成したもので、今は谷底に残った湿地帯と斜面林を保存する自然観察エリアになっていました。
そして三十稲場遺跡へ。
自然観察エリアからさらに進んだ先で、標識と解説板のみが遺跡の存在を示していました。
上の写真でいえば斜面上の平坦地が遺跡です。一応、登って遺跡をみました。
遺跡は埋め戻し保存されています。遺跡上はすっかり灌木に覆われ、藪へと帰りつつありました。
これだけです。ちょっと物足りないので遺跡の全景を眺められる南側へ回りました。
上の写真が、南側から見た遺跡の全景です。森となっているところが遺跡です。
…というわけで、馬高・三十稲場遺跡の一番の見所は「馬高縄文館」でした。
ここを訪ねられる場合は、遺跡から見た方が残念感が少ないです。というか、火焔土器の紹介に重点を置いているから遺跡の整備は最小限にとどめている、ということなのでしょう。
そこを理解して訪ねることをお勧めします。
-----------
馬高・三十稲場遺跡(昭和54年2月 史跡指定 新潟県長岡市関原町)
馬高遺跡は信濃川中流域の左岸に張り出す関原丘陵上の北緩斜面に位置します。小さな谷をはさんだ西には三十稲場遺跡(縄文時代後期)が所在します。この2つの遺跡は明治時代から遺物が採集されていて、昭和10(1935)年から昭和16(1941)年まで地元の近藤篤三郎らによって馬高遺跡の発掘調査が行われました。三十稲場遺跡は縄文後期になって馬高遺跡から移住した人々のムラと考えられています。巨大な集落の遺構や大量の遺物が出土しています。その研究史や学術的価値から史跡として指定されました。