今回もご覧いただき、ありがとうございます。
今回は新潟県十日町市にある田代の七ツ釜を訪ねます。
そもそも私が国指定文化財がどこにあるのかを、なにでチェックしているのか。
一番利用しているのが、こちらの雑誌。
第一法規出版が毎月発行している、『月刊文化財』という雑誌でチェックしています。
バックナンバーがあちこちの図書館に置かれているので、とても参考にしやすいです。
この雑誌は新指定文化財の情報だけでなく、追加指定や指定解除の情報も載っているので特によく利用しています。
そのうえでネットやスマホもチェックしてどの市町村にどんな文化財があるのか確認しています。
また、「田代の七ツ釜」のような天然記念物についてはこちらの本も参照しています。
もう30年も前に、初めてのアルバイトの給料で買いました。未だにときどき引っ張り出しては読んでいます。
ところで新潟県十日町市といえば豪雪地帯として時々テレビなどで報道されますのでご存知の方も多いかと思いますが、この街には国宝「笹山遺跡出土品」があります。一時『日本で一番製作年代が古い(縄文時代中期)国宝』でありました。
笹山遺跡出土品は、十日町市内にあった笹山遺跡から出土した縄文時代中期の土器57点を中心とした石器なども含めた928点の出土品で、国宝に指定されています。
十日町市の「十日町市博物館 TOPPAKU」に一部が常設展示されています。
ただ、現在は北海道の「北海道白滝遺跡群出土品」が本年(令和5年)に国宝指定された(製作時期は旧石器時代)ため、「最古の国宝」ではなくなってしまいました。
それでも火炎土器の造形は素晴らしいものがあります。
国宝となっているからには、マニアとしてはやっぱり一度見てみたかったので、
「お、連休を利用して訪ねてみよう」
と思いつき、今年(令和5年)のGWを利用し、我が愛車(スズキ・ワゴンR)を駆って訪ねたのです。
しかし、笹山遺跡出土品となっている土器は57点もあるんです。それ以外にも石器や土製品・石製品が871点も附指定されています。
常設展示はいつもすべての国宝土器を展示しているわけではないので、今回はその一部しか見られませんでした。
近々その一部を紹介します。笹山遺跡出土品は一度に全部見るのは難しいですから、残りは別の機会に見に行きたいです。
せっかく十日町市へ行くのだから、同じ市内にある「清津峡」へも行ってみよう、と訪ねたのですが、GWなどの繁忙期は事前予約をしないと入れないんだそうで。
知らずに行ったら、門前払いされてしまいました。そこで他に訪ねられるところはないかと検索したら「田代の七ツ釜」が見つかったのです。
「あっ!ここは『日本の天然記念物』に載っていたあの渓谷じゃないか!?」
と私の「脳内文化財レーダー」が反応したんです。
私の活動は日の出前から始まっているのでTOPPAKUの開館まではずいぶんと時間があります。これは行っておこう!というわけで訪ねました。
道はまさに秘境と呼ぶにふさわしい山奥へ向かって行きます。それにしても、ある程度有名な峡谷じゃないんでしょうか?
進むにつれて人通りがなくなっていきます。
「峡谷だから山奥へ誘われるのはわかるけど、観光地にしては朝早いとはいえ、人通り少なすぎない!?」
こちらは地元の方でない限り、あまり知られていないようで。
そのうち人家もなくなり、対向車もなくなります。それでもひたすら山道を進んでいきます。
道を間違えていないか不安になってくるころ、田代の七ツ釜へと誘導する看板が現れました。
道は間違えていないようです。
それにしても…
「あと6k(キロ)…、3k…、2k…」
あと6km?こんな道が!?本当の山奥だな…。
やがて「あと2㎞」の標識のところで「林道」の標識の方へ入っていくことになりました。
やはり林道です。沢を渡る橋には欄干がない。
一般の車両が入っていいの?いよいよヤバくねぇ!?と思っていた矢先に、ちょっとした広場と下の写真のような看板が目に入りました。
「目的地に着いたみたい、間違ってなかったのね…」
と安堵しました。広場は七ツ釜広場といい、駐車場のようです。とりあえず車を駐車し直しました。
案内図を見て、どこからが田代の七ツ釜なのかを確認しました。ここは「ゆり釜」や「手洗釜」へ降りていくところに当たるようです。
「あれ?長渕と赤渕はもう通り過ぎてるじゃないか!」
来るときに降りるような道はありませんでしたけどねぇ。帰りにもう一度確認しましたが、この2つの淵へは林道から降りるような道はないようです。
その後も調べてみたら、七ツ釜の下流域へは沢登りの装備をしなければ登れないようです。
そこまでして見たいかといわれると、見たいですけど装備を持っていないので、この2つの淵を見るのは諦めるしかありません。
まずは案内標識にある弁天堂を目指しました。案内図に従って道らしい道を下っていきます。
「道らしい道」といいましたが、あまり訪ねる人がいないらしく、道は藪へと化すところです。獣道のようになっています。
なんとなく踏み跡がある方へ進んでいきますが、それで大丈夫でした。
途中で木々の間に、見上げるような絶壁と轟音を響かせる水流が見渡せる場所に出ました。
これこそが田代の七ツ釜、弁天滝、二の滝、三の滝でした。
これは見事な景観ではありませんか!右側の絶壁を形成しているのは火山岩の柱状節理です。
谷を形成している水流は絶壁の雄大さと相まり、水墨画のようです。水音が轟き、山々へコダマしています。
この勇壮な感じ。想像以上に素晴らしいです。
「いやぁ、これはなかなかな眺めじゃなぁい???」
ここまで来た道々で覚えた不安や恐怖を考えたら、来てよかったと心底思います。
もう少し下ると、やがて寂れたお堂が見えてきました。これが弁天堂のようです。
ここからは眼下に手洗釜が見えます。
ここが手洗釜とすると、ゆり釜はこの上流にあるのでちょうど今いる足元の流れの辺りになるはずです。
ただその位置は足元の岩場がちょうど渓谷に向かってオーバーハングした状態になっていて見えません。手すりがあるわけでもなく、見える位置まで移動するのはとても危険です。
これも見るのは諦め、手洗釜の上方に広がる景観を楽しみました。
樹木がちょっと邪魔ですが、見事な岸壁が聳えていて墨絵を見ているようです。
この柱状節理が発達した岩壁は、ココが火山地帯だったことを表わしています。
玄武岩かな、と思ったのですが、安山岩(輝石安山岩)のようです。
さらに上流の方を見てみると、3つの滝が次々に流れ落ちるさまが眺められます。
すごい、という言葉しか出てきません。
ちょっと上流に行ってみましょう。一の滝(別名:弁天滝)を近くで見ることができます。
七ツ釜広場よりさらに登っていくと、林道の終点となって、展望駐車場があります。ここに車を停めて、歩道を降りてみましょう。
弁天滝をより間近に見ることができます。最も近くから見える位置で撮影したのが次の写真です。
…違和感を覚えた人、いますか?
あなたはナカナカ鋭いですよ。この滝、実は人工の滝です。
「景観や地質が重要だから名勝・天然記念物に指定されたんじゃないの?滝が人工じゃ、価値がないじゃない!即刻、解除すべきだ!」
と思われる方もいるかもしれませんが、そこはちょっと落ち着いてください。
実はこの滝、文化財保護の上で結構注目された、重要な土木工事が行なわれたのです。
この滝は、正式名称を「七ツ釜下流砂防堰堤」といいます。現在は砂防ダムなのです。
もともとは天然の滝でした。しかし平成7(1995)年、この年は例年より雪解け水が多く、4月下旬に七ツ釜を形成している釜川で洪水が発生しました。その影響で弁天滝が崩落、七ツ釜すべてが土砂に埋もれるという被害が発生したのです。
そのままにしておくと釜川下流で大規模な土石流災害が発生する恐れがあったので、ここに砂防ダムを建設することになりました。
ただここは国指定名勝・天然記念物に指定された景勝地ですから、その景観を損なうことなく復元しようと、付近の岩に似せた「擬岩ブロック」というコンクリート製のブロックを用いて砂防ダムが築かれたのです。工事は2年後に竣工しました。
このことは当時、『月刊文化財』にも紹介されていました。その記事を読んでいたのでよく覚えています。
景観を損なうことなく防災上の構築物を建設し、現在も違和感なく風景に溶け込んでいるのですから、すごい技術じゃありませんか。
展望広場には同じく擬岩工法で造られたコンクリート製の竣工記念碑が建てられています。
ちなみに、上流には七ツ釜上流砂防堰堤もあります。こちらは実際に見てはいないのですが、写真で見る限り普通のコンクリート製砂防ダムでした。
ところで、田代の七ツ釜は地質学上も注目される場所なんですよ。
安山岩(輝石安山岩)の柱状節理がに発達していて、広範囲で観察できるんですよ。
一部では断層による「ずれ」も見られます。
断層面は断層がずれた際の動きで破壊されているのが見られます。「破砕帯」ですね。
破砕帯といえば映画『黒部の太陽』で知られた黒部ダムの扇沢トンネルですが、あそこに比べれば小規模ですけどね。
でも、崩れた状態を目にすることができるんですよ。おもしろいでしょ。
田代の七ツ釜、機会があればまた行ってみたいです。
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田代の七ツ釜(昭和12年6月 天然記念物・名勝 新潟県十日町市田代)
田代の七ツ釜は清津川の支流、釜川が上流部で形成した渓谷です。七ツ釜付近の地盤を形成する岩石は輝石安山岩で、渓谷は断層面に形成されました。渓谷には柱状節理の壮大な景観が見られます。渓谷の浸食に伴って河床には甌穴が発達し、それらが滝壺となって滝が連なる景観を形成しています。
江戸時代に十日町市や魚沼地方の生活の様子を記した『北越雪譜』などもすでに記載されていて、この釜には弁天様の使いの大蛇が住んでいて、魚を取るために投げる網は一度だけという弁天様との約束を破り、二度目の投網を打ったために大蛇に食べられてしまったという「七ツ釜伝説」が紹介されています。

















