<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(1日目⑥・富山市内散策) | 花咲く旅路

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「松川」沿いの散策路を往きます。

 

 

 

 

このあたりは、   磯部の堤   と呼ばれます。

 

 

「磯部の堤」と呼ばれる「松川」の堤防は、古くは「神通川」の堤防で、

各所に昔の面影を残しています。
昔の「神通川」は、大雨のたびに氾濫し、「磯部」をはじめとする付近一帯は

しばしば水害に見舞われていました。
「神通川」が今の川筋になったのは、大規模な河川改修が行なわれた

1897年(明治30年)代以降で、「松川」の誕生は1934年(昭和9年)頃です。
1913年(大正2年)3月には、「大正天皇」の御大典を記念して、当時の市長

「井上正寛」等が発起して、東京からソメイヨシノの苗木を取り寄せ、植樹しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市電の、   安野屋駅       磯部の堤説明碑

 

 

 

 

 

 

 

 

車道を地下歩道でくぐります。         春には咲き誇るであろう桜の並木。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いろんな記念碑が建ちます。          金刀比羅神社

 

 

「金刀比羅神社」

”こんぴらさん”とも言われ、「神通川」の漁師たちの漁の安全、

大漁祈願の神社として知られます。

かつては「神通川」の「鱒」を供えていたそうですが、

現在は「鱒のすし」を供えているそうです。

「神通川」は度々大洪水を起こし、堤防が決壊し、河川は大氾濫しました。

当時、「七軒町」在住の漁師「余川氏」の夢枕に、”我は金刀比羅大権現にてこの洪水によって

飛騨の高山よりきたればこの地に祭事を行なうよう”とのお告げがありました。

夜明けを待って「神通川」へ駈けつけたところ、お告げ通り、

桧材の上に石の御神体が流れ着いているのを発見しました。

御神体はひとまず「鹿島神社」に安置しました。

当時、現在の場所は、数100年の樹齢を数える欅や榎が生い茂る森厳な地でした。

1858年、神社建立の際、その中の何本かを藩より払い下げてもらい、

「金刀比羅神社」の「本殿」並びに「拝殿」の建立にあてました。

そして舟運安全、家内円満、商売繁盛などを司る河川の守護神として、

「七軒町」住民一同の手でお祭りするようになった、ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高志の国文学館

 

2012年(平成24年)に開館した文学館です。

「富山県」は、万葉歌人「大伴家持」が223首もの歌を詠んだ「越中万葉」ゆかりの地です。

「堀田善衞」や「源氏鶏太」、「角川源義」といった作家を輩出しているほか、

「宮本輝」の「螢川」、「柏原兵三」の「長い道」、「新田次郎」の「劔岳 点の記」など、

「富山」を舞台にした文学作品も多数あります。

映画では「滝田洋二郎」や「本木克英」、「細田守」を輩出し、

漫画では「藤子不二雄Ⓐ」、「藤子・F・不二雄」らを生んでいます。

「高志の国文学館」は、これら「富山県ゆかり」の作家や作品の魅力を幅広く発信し、

誰もが気軽に「ふるさと文学」に親しみ、学ぶことができるとともに、

新たな創作への刺激ともなる場として開館しました。

 

今回はスルーしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彫刻が立ち並びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろい橋がありました。

舟橋

 

 

 

 

 

「松川」には、あまたの橋が架かかります。

こちらの「舟橋」は、江戸時代に“日本一の船橋”と呼ばれた橋の名残を残す橋です。

明治時代に埋め立て工事が行われる前、この地には「神通川」の本流が流れていました。

1661年頃、富山藩初代藩主「前田利次」は、「加賀藩」との領置替えに伴って、

城下町の再編を行い、船の上に板を並べた「船橋」を設けました。

川の端から端まで渡し船を64四隻も並べ、鉄の鎖といかりで固定、

長さは200mを優に超えていたといいます。

橋の上から見る雄大な「立山連峰」の景観は、富山随一の景勝地とされました。

橋は、富山のランドマークであり周辺は茶店やます寿司の店が並び賑わいました。

1709年には藩は橋の周囲で町民が納涼のための舟遊びをしたり、

太鼓や三味線などの楽器の打ち鳴らし、浄瑠璃などの語り、

花火をすることは華奢であるとして禁止しているほどです。

江戸時代には他所にも「舟橋」はあり、「福井」には長さ218m、舟数48艘の

「九頭竜川舟橋」、「盛岡」の「北上川」には長さ200m、舟数48艘の「新山舟橋」などが

あり、それぞれ図会が残されていますが、いずれの橋もほぼ真っ直ぐに描かれています。

しかし日本屈指の急流であり、春には特に水量が増え川幅も広い「神通川」の船橋は、

「六十余州名所図会」に「冨山船橋」として描くなど、多くの浮世絵などの図会が制作されて

いますが、いずれの図会も川の流れにより大きく下流側に弧を描く橋が描かれており、

そのダイナミックな姿や、「東遊記」など多くの紀行文などが他国に紹介されたことにより

全国に知られることとなり、立山と共に越中名所のひとつとなりました。

一方、足を踏み外して溺死する人もいたそうです。

そのため、明治中期には「神通橋」という木橋となり、

その後の埋め立て工事の影響で撤去されました。

現在の「舟橋」は江戸期の橋をモチーフにし、1989年(平成元年)に完成。

2つの渡し船を鎖でつないだ特徴的なデザインで、「日本百名橋」にも選ばれています。

 

 

 

 

「舟橋」のそばには、

常夜燈             舟橋旧蹟碑    が建ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彫刻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

壁面に印象的なオブジェ、

旧富山市立図書館        延命地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福祉施設

サンシップ富山         NHK        

 

 

「サンシップ富山」

”福祉の船出”と立地する”舟橋町”というところから命名された施設です。
「福祉」というともすると暗くなりがちなイメージを一新するために、

ガラス張りで明るくサンサンと光が降り注ぐ舟をイメージして設計されています。

1999年(平成11年)の完成。

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたり、官庁街です。

 

 

富山県庁

 

「旧神通川」廃川地に1935年(昭和10年)に建築された、

鉄筋コンクリート造4階建ての庁舎建築で、

当時としては先進的な耐震大火建築に留意しています。

「富山大空襲」からも焼け残りました。

戦前の富山市街地の近代化を象徴する公共建築。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山市役所

 

 

 

 

富山市役所の庁舎は、市制施行100周年記念事業として、

1992年(平成4年)に完成しました。

庁舎は、地上8階、地下2階建てで、東館、西館、議会棟からなります。

壮大な「立山連峰」を連想させるアトリウム屋根と、地上70mに位置する「展望塔」は、

富山市のランドマークとなっています。

 

 

 

地上70mに設置する「展望塔」へ登りました。

無料で登れます。

展望台からは、雄大な「立山連峰」が一望できます。

眼下に広がる「富山市街地」、南には「富山城」、西には「呉羽丘陵」、北には「富山湾」。

360度の大パノラマです。

 

そんなに天気は良くなかったですが、「立山連峰」が美しく見えました。

 

 

 

 

 

 

 

今、「松川」沿いに歩いてきた方面。      「富山城趾公園」。

 

 

 

 

 

「富山駅」方面。             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先ほどから「松川」沿いに彫刻が立ち並びますが、ここは、

松川べり彫刻公園     になります。

富山県内在住、富山県出身の彫刻家の作品28点が設置されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本町観音堂  万霊塔

 

 

 

 

木町の浜

 

 

現在の「松川」は、「神通川」の古い河道の名残りで、かつての「神通川」と「いたち川」が

合流する一帯は「木町の浜」と呼ばれていました。

「神通川」に川流しされた木材を陸揚げした場所ということで、

その名がつけられたと言われています。

江戸時代から明治にかけて、下流の「岩瀬湊」との間を、

白帆を張った40石積の舟が絶えず航行しました。

近くにあった木町御蔵などからは米が集められ、この場所から積み出されました。
この場所に「万霊塔」が建てられたのは、1746年の「神通川」の大洪水の際、

遺骸がこの「木町の浜」にも多数打ち寄せられ、その遺骸を供養するためということです。

「観音堂」は、1858年の大地震の時に、

このあたりにたくさんの犠牲者があったので、建てられたそうです。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し歩くと、また、   万霊塔  地蔵堂  がありました。

 

1831年、4月12日の正午過ぎに富山の街で火災が発生、

南からの季節風が強く吹いていたため火は瞬く間に燃え広がり、

富山の街のほとんどが火の海と化し、「神通川」に架けられていた

「舟橋」の舟20艘も焼けて流れました。

当時の「神通川」河畔であるこのあたりまで逃げて来た人々も、

逃げ場がなく、70人超が焼け死にました。

この時の大火で焼失した家屋は、8340戸といわれます。

その後、7回忌に当たり、有志が亡くなった人々の霊を慰めるため、

この萬霊塔を建立しました。

 

「地蔵堂」は、このあたりに安置されていた地蔵尊を合祀したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北陸新幹線」などの鉄道路線を地下道でくぐります。

 

 

 

 

 

 

 

                      「松川」と合流した「鼬川」を往きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)