<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(1日目⑤・富山市内散策) | 花咲く旅路

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「梅沢町寺院群」の散策がもうちょいつづきます。

 

 

 

 

 

 

大法寺

 

 

創建は1606年、「照盛院日行上人」が日蓮宗の寺院として開いたのが始まりと伝わります。

富山藩2代藩主「前田正甫」は1686年に「一龍院日徳上人」の教化により、

日蓮宗徒となり寺領9000坪、赤梅壇の「釈迦牟尼仏立像」を寄進するなど、

「大法寺」を篤く庇護し自らの菩提寺に定めています。

さらに1691年には領内の日蓮宗寺院の首席と定め、大きな影響力を持つようになります。
「富山藩」の菩提寺は当初、初代藩主「前田利次」によって曹洞宗の「光厳寺」と

定められていたことから3代目以降は1代毎に菩提寺が「光厳寺」と「大法寺」とに

交代し菩提を弔うことになりました。
境内には薬種商の「松井屋源右衛門」や富山藩家老の墓などが建立されています。

 

 

 

 

鐘楼              日蓮聖人像

 

 

「鐘楼」

越中出身の鋳造師「藤原朝臣川辺千右衛門家延」の作で、

高さ130cm、直径91cm、重さ約1トンになります。

6代藩主「前田利與」が初代から5代藩主までの追善供養のために、

1767年に寄進されたもので、1863年の火災、明治時代初頭に発令された

神仏分離令とその後吹き荒れた廃仏毀釈運動、太平洋戦争時の金属供出、

富山大空襲など、多くの災難から逃れてきているため"厄除け招福の梵鐘"と呼ばれています。

 

 

 

 

菅神祠

 

「前田家」の祖とされる「菅原道真」を祀ったもので、

1832年、9代藩主「前田利幹」が「富山城内」に建立しました。

廃藩置県後に2度移転、1959年(昭和34年)に、

「前田家」縁の「大法寺」に移築寄進しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立像寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山の医薬品製造メーカー、   廣貫堂    へ。

こちらには薬の資料館があるのです。

 

 

明治初年には、「富山藩」は100種を超える薬を取り扱っていましたが、

廃藩置県により反魂丹役所がなくなり、大きな転換期を迎えます。

新政府は、国内の医薬業界を国家統制のもとにおくため、

売薬規制法を制定し、漢方売薬を廃止に追い込みます。

富山売薬の最大の危機を乗り越えるため、売薬業者たちは、

それぞれの資金と知識をあわせて、「売薬結社広貫堂」を発足させたのです。

「廣貫堂」という社名は、「前田正甫」の”広く救療の志を貫通せよ”の

訓示に由来すると伝えられています。
 

 

 

 

                廣貫堂資料館

 

 

「廣貫堂資料館」

”越中富山の薬売り”の300年を超える歴史を物語る貴重な資料や道具、

昔懐かしい薬のパッケージなどを一堂に集め展示しています。
また、大型スクリーンの映像でくすりの歴史と製造工程の今昔を、

楽しく分かりやすく紹介しています。
越中売薬のきっかけとなった江戸城での出来事や、

全国津々浦々を旅した売薬さんの当時の様子を立体的に再現したジオラマは必見です。

 

 

 

 

江戸城での腹痛事件、            「前田正甫像」と

これを機に富山の薬が全国の評判に!     人々に医療と農耕の術を教えた「神農像」。

 

 

 

 

 

「反魂丹」の展示。              「製薬」と「薬業教育」の展示。

 

 

明治期、従来の和漢薬、売薬業が規制を受けるなか、「廣貫堂」をはじめとする売薬業者は、

売薬の発展、近代化を目指し、専門知識をもつ人材の育成に力を注ぎます。
1894年(明治27年)、薬業教育と配置員養成を目的とした、

「私立共立薬学校」を設立します。

1898年(明治31年)に「私立富山薬業学校」に昇格、その後、県立化を経て、

1920年(大正9年)に官立に移管、1949年(昭和24年)には、

「国立富山大学薬学部」として、富山の薬学の最高学府に受け継がれていきます。
その後も「廣貫堂」は、社員の知識、教養を高めることを目的とした、

「広貫堂薬学青年学校」を1939年(昭和14年)に設立、

さらに1955年(昭和30年)には「広貫堂薬学院」を設立するなど、

積極的に人材育成の環境づくりを進めました。

 

 

 

 

 

売薬さんの展示。

 

 

 

 

 

 

 

 

製薬の機械、道具の展示。

 

 

 

 

配置薬小袋コレクション。          

 

 

 

 

「廣貫堂」の製品。

 

 

 

 

売薬さんと「廣貫堂」の歩みの展示。      ビタミンドリンクをいただきましたニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

富山の売薬の歴史を学ぶことができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

繁華街を通ります。

 

 

 

       地方百貨店の「大和」。         味のある薬屋さん。 

    

 

 

 

 

 

 

 

白山神社

 

 

創祀年代は不詳。
往古、新川郡太田の保、布市村に勧請され、
1336年~1340年の「延元年間」には「白山妙理大権現」と称されていたといいます。

その後、中野の古宮の地に奉遷し「白山比咩社」と称し、

1571年、現在の中野新町に遷座しました。

1532年、越中の士族「水越越前守勝重」が「富山城」を築城以来、
「神保氏」、「佐々氏」の崇敬篤く、「前田利長」が「富山城」に入城すると、
城南福門の守護神として崇敬された神社です。
1732年、本殿、拝殿を造営、1881年(明治14年)郷社に列せられました。

 

 

 

                宝来石鍋

 

 

1877年(明治10年)に「富山市」でコレラが流行した際、

この神社の氏子からは病人が出ませんでした。

この神慮に感謝して、氏子たちは「宝来山(曳山)」を曳いていましたが、

1899年(明治32年)の大家で焼失してしまいます。
昭和に入って再現するも、再び戦火で焼失。
その後、この「宝来山」を後世に伝えるため、「石鍋」を奉納。
御神託により「除災招福の宝来石鍋」と命名されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひっきりなしに市電が走る富山の町並み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山県護国神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山県出身の、「明治維新」から「太平洋戦争」までの戦没者を祭神とする神社です。

祭神は28,679柱になります。

1912年(明治45年・大正元年)に「富山縣招魂社」として設立が認められ、

富山県知事が建設委員長となって富山県の公園にて工事着手、1913年(大正2年)に鎮座。

1939年(昭和14年)、全国の「招魂社」が「護國神社」へ改称されるのに合わせて、

「富山縣護國神社」に改称しました。

1945年(昭和20年)の「富山大空襲」によって、

手水舎などごく一部の建物を除いて社殿を焼失します。

その後、1954年(昭和29年)に再建されました。

現在の「大拝殿」は1991年(平成3年)に竣工したものになります。

 

 

 

 

伊佐雄志神社          佐久良文庫

 

 

「伊佐雄志神社」

「富山大空襲」による戰災殉難者、治安の維持と公共の災害防護その他安定のため

殉職せられた自衛官、警察官、消防團員、消防署員、郵便局員及び地方功労者を祭神とします。

戦災により焼失した社殿を、1975年(昭和50年)に、

「富山縣護國神社」終戦30周年記念事業として造営しました。

 

 

 

 

 

境内には様々な慰霊碑が建ちます。

 

 

 

 

 

土俵もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「護国神社」後ろには「神通川」が流れます。

 

その側を流れる、   松川    沿いを往きます。

 

 

 

 

 

 

 

磯部の桜並木          磯部の一本榎

 

 

「富山市磯部町」から「安野屋町」には、「松川」に沿って桜並木があります。

その右岸側に、「磯部の桜」碑が所在し、「磯部の一本榎」の説明板も立ちます。

「織田信長」配下であった「佐々成政」は「越中」の大名でしたが、

「柴田勝家」とともに「羽柴秀吉」と敵対関係にありました。

「賤ヶ岳の戦い」後、「秀吉」に与する大名に囲まれた「成政」は、

「徳川家康」に接近して打倒「秀吉」を画策しました。

ところが1584年、「小牧長久手の戦い」で突如「秀吉」と「家康」は和睦します。

慌てた「成政」は「家康」説得のために、「越中」から真冬の「立山・北アルプス連峰」を

縦走して「信濃」を抜けて、「浜松」にいる「家康」に直談判をしようとしたのです。

これが有名な「さらさら越え」と呼ばれる行動です。

「成政」の再挙要望を「家康」は拒否、失意のうちに「成政」は富山に戻りました。

「富山」に戻った「成政」は、最も可愛がっていた側室の「小百合」が小姓「竹沢熊四郎」と

不義密通、懐妊している子も「竹沢」のものという噂を聞きます。怒りに駆られて「熊四郎」を

斬り捨てると、無実を訴える「小百合」の髪を掴んで「神通川」のほとりの「榎の木」まで

引きずっていき、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたのです。

無実の罪で殺される「小百合」は歯を噛み砕き、血の涙を流して”悪鬼となって、数年のうちに子孫を殺し尽くして家名断絶させる”と罵り叫んだといいます。

また”立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する”とも言ったとそうです。

その後、この「榎」には怪異が起こるようになります。

風雨の夜、この付近に女の生首と鬼火が現れたり、この「榎」の下を

「小百合、小百合」と7回呼びながら回ると、「小百合」の亡霊が現れるとも伝えられました。

「小百合」を斬殺してから「佐々家」は凋落、「成政」は「秀吉」に降伏して

「越中」の太守から「秀吉」の御伽衆となりました。

そして後に「肥後」一国を与えられますが、

国人一揆を誘発した罪によって「摂津」の「尼崎」で切腹。

1588年、「小百合」が殺されて僅か4年足らずの出来事でした。

「小百合」斬殺とその後の怪異については、実は、その後に「越中」の支配者となった

「前田家」が統治の手段として流した噂話であるとの説もあります。

明治の頃まで人魂が出ると言われた「一本榎」ですが、戦災によって焼き払われてしまい、

現在あるものは2代目になります。

「榎」のすぐそばには「小百合」の霊を慰めるべく「早百合観音堂」が安置されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「松川」の遊歩道から望む、

雄大な「神通川」べり。            「有沢橋」と「立山連峰」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)