<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(1日目④・富山市内散策) | 花咲く旅路

花咲く旅路

旅、グルメ、MONO、自分を幸せにしてくれるものを記録します。

 

「西町大喜」で「富山ブラック」を食し、散策の再開です。

 

 

 

 

 

 

 

 

建物に挟まれて、祠がありました。

 

富山中教院

 

 

 

「中教院」の名は明治初期に各県において設置された

「大教院」の下部組織である「中教院」に由来します。

当時は広大な敷地を有していましたが、現在は幅約2mの小さな祠となっています。

「中教院」の前の通りは「中教院前通り」と呼ばれる商店街となっています。

「中教院」が所在した場所はもとの「勝興寺」支坊境内でした。

”日本一小さい神社”であるとも言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いい感じの地方の繁華街感。

 

新世界    というエリアです。

 

 

かつて赤線地帯と呼ばれ、旧遊郭のあったところです。

明治時代は、「東遊郭」とよばれ、娼妓300人以上いたと推定され、妓楼や貸し座敷、

料理屋は150軒を越えたという一大遊郭がありました。

第二次世界大戦の空襲で壊滅的な打撃を受けて消滅。

その後「新世界」として細々と復活しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鼬川     沿いにやってきました。

 

 

「鼬川(いたちがわ)」は、富山市を流れる延長約12kmの河川です。

「常願寺川」と「神通川」という富山の2大河川を結ぶ川です。

「鼬川」沿いにはたくさんの地蔵尊や仏像が安置されています。

上流の富山地方鉄道「大泉駅」から「松川」の合流口までmの約2.7kmの間に、

19体の地蔵尊が祀られ、21本の橋が架けられています。

絶好の散策路ですね!

 

 

 

 

 

 

 

 

石倉延命地蔵尊  石倉町延命地蔵の水

 

 

「鼬川」の左岸、「泉橋」の西詰にある地蔵堂です。

地蔵堂の側には湧水が出ています。

1858年の「飛越地震」で「大鳶山」と「小鳶山」が崩れ、「常願寺川」が溢れた際、

「石倉町」の「晒屋甚九郎」が、夢のお告げで「鼬川」の底に沈んだ地蔵を引き上げ、

地蔵堂を建てました。

「富山大空襲」で被災しますが地蔵尊は無事で、

1955年(昭和30年)に再建され供養されています。

「延命地蔵」が祀られている場所は、「常願寺川」が運んだ土砂の堆積によってつくられた、

扇状地の扇端部にあたります。

扇状地はたびたび洪水に見舞われますが、扇端部では豊かな水の恩恵を受けることができます。

この場所では、扇状地に染みこんだ「立山」の豊富な雪融け水が、清純な地下水となって

湧き出し、万病に効くといわれ「延命地蔵の水」として人々に利用され続けています。

 

 

 

 

 

 

 

「泉橋」を渡ると、   源氏鶏太文学碑    が建っていました。

 

 

「源氏鶏太」は、富山市出身の小説家。

「富山商業」を卒業後、大阪の「住友合資会社」に入社。

勤続 25年余のサラリーマン体験を生かし、ユーモアとペーソスに富む

サラリーマン小説を書きました。

「英語屋さん」 などで「直木賞」を受けました。

代表作「三等重役」、「停年退職」、「永遠の眠りに眠らしめよ」 などがあります。

直筆の原稿「一本の電柱」を模した銅版が自然石にはめこまれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

泉町子宝延命地蔵尊

 

 

「石倉延命地蔵尊」の対岸に安置される地蔵尊です。

由緒に関しては「石倉延命地蔵尊」と同じでした。

こちらのお水も霊泉で、万病に効くと云われます。

 

 

 

 

 

 

 

旧東田町延命地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久右衛門橋

 

 

1986年(昭和61年)の竣工。

橋詰めに「常夜燈」を配置しています。

命名の由来は、「孝子久右衛門」を記念してとのこと。
「久右衛門」は、江戸時代半ば、「寺内町」の住人で、母子家庭に育ち、親孝行で正直者。

富山2代藩主「前田正甫」から”諸人の手本”として表彰され、

米10石を与えられたといいます。

 

 

 

 

 

 

 

清水町一丁目延命地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

堤町通り二丁目延命地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

室町通り二丁目子安地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

 

辰巳町一丁目福徳地蔵尊     清水町長寿地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

辰巳町二丁目延命地蔵尊

 

 

 

 

 

 

 

 

辰巳町二丁目釈迦牟尼如来    辰泉橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから、「鼬川」沿いを外れ、     梅沢町寺院群     へ。

江戸時代、「富山城下」南面の防備のため、約60の寺院を集めて寺町を形成しました。

古くからあった「古寺町」に対してこの地は「新寺町」と呼ばれました。

明治の「廃仏毀釈」に先駆けて「富山藩」は「合寺令」を公布して、

藩内205の寺院を、七宗七寺に統合。

これによりこの辺りの寺院は打ち壊され荒れ果てました。

しかし「廃藩置県」後に寺院復興運動が盛んになり、少しずつ寺院が集まりだしました。

第二次世界対戦の空襲により再び壊滅し、戦後になって復興しましたが、

往時の面影はなくなってしまったそうです。

 

 

 

極楽寺

 

 

後醍醐天皇の第8皇子「宗良親王」開山のお寺です。

江戸時代にはこの地において、「寺子屋」として地域の子弟の教育に貢献していた、

という文献が残っています。

1945年(昭和20年)に、戦災によりすべての建築物並びに寺宝等を焼失しました。

1971年(昭和46年)、近代建築の鉄筋コンクリート造りの本堂を再建しています。
北陸算学の祖「中田高寛」の墓があり、塚碑が建ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真興寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妙国寺

 

 

「妙国寺」

境内には富山に「反魂丹」の製法を伝授した備前国岡山の医師「万代浄閑」の遺骨が分骨され、

堂内には「浄閑像」を所蔵し、「萬代浄閑祭」が催されています。

「万代浄閑」は「岡山藩」の医師で、1681年~1683年の「天和年間」に

「富山藩」に入り、富山藩2代藩主「前田正甫」に「反魂丹」を献上し、

城下に屋敷を構える薬種商の「松井屋源右衛門」に製法を伝授したと伝えられています。

また、境内には売薬行商人の祖とされる「八重崎屋源六」の碑が建立されています。

「八重崎屋源六」は岡山の「万代浄閑」を訪ねるなど親しい間柄だったとされ、

分骨を「妙国寺」に持ち帰り埋葬したとも云われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

来迎寺

 

 

701年、「佐伯有若」が「立山」の「千坊が原」に、

「五智山円福寺」を開いたのが始まりと伝えられています。

当初は「立山権現」の別当職であったと伝わる古寺で、

1155年に当時の住職である「林海」の夢枕に「立山権現」が立ち、

その御告げに従い萩島に移転します。

その後、「林海」は「法然上人」の直弟子となり浄土宗に改宗し、

1197年に寺号を「来迎寺」に改称しました。

1502年に「古寺町」に移転、1661年に「富山藩」の政策により現在地に移っています。本尊は鎌倉時代初期に制作された「木造阿弥陀如来立像」。

 

 

 

 

 

 

 

本壽寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本陽寺

 

 

天然記念物として指定されている「大賀ハス」のお寺として有名。

「大賀ハス」は1962年(昭和37年)に「大賀博士」によって手植えされた、

約3000年前の種の分根である古代ハスです。

 

 

 

 

 

 

 

光傳寺             利生寺

 

 

「利生寺」

富山藩「前田家」歴代の祈願所として寺領400石並びに、

丁字梅鉢の定紋を拝領されたことが始まりです。

堂内に安置される「子安鬼子母神」、「弁財天」は藩主の命により

城下の大仏師「次郎兵衛」の名品で、「前田藩」や領民の安産と子育ての守護神として

参詣者が多く集まりました。

現在安置の「子安鬼子母神」は1957年(昭和32年)に再調したものになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海岸寺

 

 

創建は1342年、「月庵珖瑛和尚」によって開かれたのが始まりと伝えられています。

当初は「浜黒崎」にありましたがその後「丸山」に移り、

戦国時代は「富山城」の城主「佐々成政」の祈願所として庇護され寺運も隆盛しました。

1639年に「富山藩」が立藩すると初代藩主「前田利次」が「藩庁」が置かれた

「富山城」の城下に招き、以来「富山前田家」の歴代祈願所として庇護されました。
寺宝は、「仏祖正伝菩薩戒教授文」で、能登の「総持寺」を開山した「螢山紹瑾」が、

1323年に記したものになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)