<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(1日目③・富山市内散策) | 花咲く旅路

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旅、グルメ、MONO、自分を幸せにしてくれるものを記録します。

 

「富山城址公園」を観光し、町歩きに戻ります。

 

 

 

 

 

 

いい感じの飲み屋街なんかがあります。

地方のこーいうエリアには興味が尽きません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本願寺富山別院

 

 

 

 

富山市総曲輪にある浄土真宗本願寺派の直属寺院であり、

富山県東部における「本願寺派」の一大拠点。

寺務所には「富山教区教務所」があり、富山県東部の本願寺派寺院を管轄しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総曲輪通り商店街

 

 

富山市中心市街地にある商店街で、富山市の顔ともいえる商業エリアです。

「西町」と「中央通り」を含めた富山市の中心3商店街の中核的存在。

「大和富山店」が入る「総曲輪フェリオ」から、

「西武百貨店」跡を再開発した「ワクル総曲輪」まで、

長さ260mの通りに、商盛会加盟専門店40店が並びます。

(※訪れた時には「ワクル総曲輪」はまだなく、西武が建っていました。)

商店街の誕生は、1895年(明治28年)。

一帯は「富山城」の外堀を埋め立てた場所で、「浄土真宗大谷派」と「本願寺派」の

東西両「別院」の門前町として発展を遂げてきました。

昭和後期の最盛期には商盛会の加盟店数が100店に達したそうです。

しかし、次第に郊外型のショッピングセンターなどとの競合が激化し、

中心市街地の活性化が求められるようになりました。

富山市は2007年(平成19年)、全国に先駆けて国から活性化計画の第1号認定を受け、

同年中に「大和富山店」を核とする複合再開発ビル「総曲輪フェリオ」と、

イベント広場の「グランドプラザ」が開業します。

 

 

 

 

 

総曲輪フェリオ         グランドプラザ

 

 

 

 

 

「グランドプラザ」では、「フラワーバレンタイン」というイベントがやっていて、

花が飾られていました。

バレンタインデーに、花を贈ろうというイベントのようです。

 

このあたりには、この旅でお世話になる、「ドーミーインホテル」も建っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さすが雪国!

雪かき用のスコップが道端に設置されていましたよ。

 

「雪と汗のひとかき運動」やって。

どなたでも気づいた人が任意で雪かきしてねってことね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和な町並みの魅力♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづいては、富山らしいスポットへ。

 

 

池田安兵衛商店

 

江戸時代から全国で親しまれた“富山の薬売り”の文化を体験、購入できるお店です。

古い木製の「製丸機」を使って丸薬製造実演の見学と体験が人気。

お土産に最適な和漢薬やレトロなパッケージの小袋薬なども購入できます。
2階はレストラン喫茶になっており、薬膳料理を楽しめます。

 

創業は1936年(昭和11年)、初代「池田実」が、

現在の地に和漢薬種問屋として暖簾を掲げました。
戦後まもなく江戸時代に一世を風靡した「反魂丹」の製造販売を始めました。
現在も日本の伝統薬を中心に、和漢薬の世界を追及しています。
染め抜かれた角三の屋号は、「信用」「伝統」「研鑽」の3つを極めよ、

という家訓を表すものです。

 

「反魂丹」の歴史は江戸時代の中期にまでさかのぼります。
富山藩2代藩主「前田正甫」は、元来薬草の研究家と知られ、

城内には立派な「薬草園」までありました。
備前の医師「万代常閑」から製法を伝授された「反魂丹」を、

城下の薬種商「松井屋源右衛門」に命じて製造を始めました。

以来、藩の厳しい統制の下、原料の品質や効き目の確かさで

確固たる地位を築き上げていったのです。
「富山の薬売り」は、置き薬という独特の販売方式を構築し、

全国津々浦々、どんな場所までも薬を届けました。
明治政府による西洋医学の導入は、それまでの日本の伝統薬を否定し、

多くが廃止に追い込まれました。
「反魂丹」も同様の運命にさらされ、

代わって西洋薬の影響を受けた多種多様な薬の製造が始まります。

そうして明治、大正、昭和の時代の中で、

富山の売薬業は県を代表する産業へ育っていったのです。
 

 

 

店内、見て回ることができます。

 

店の中央に   製丸機   が展示されます。

 

 

 

 

薬を携帯した袋などの展示。          薬売りの持ち物。

 

 

 

 

多種多様な薬。

 

 

 

 

看板。

 

 

 

 

                       生薬をすり潰す「薬研」や、

                       生薬を切り刻む「包丁」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                臨池居跡

 

 

「堤町通り」の「池田屋安兵衛商店」から少し入ったところに「酒のとよた」が建ちます。

ここにはかつて、江戸時代中期から明治時代にかけての

富山県内における代表的寺子屋の「臨池居」がありました。

「越中国」の私塾としては最も古く、「小西塾」とも呼ばれました。

1766年、「小西鳴鶴」によって創設され、

1899年(明治32年)までこの地に存続しました。

1830年~1843年の「天保年間」頃から、当初の漢学塾から寺子屋へと性格を変え、

その授業内容は往来物、習字、そろばんの他、売薬業の発展に伴い薬名帳を加えるなどの

独自性を持ち、独特の書風も生まれました。
塾生は男子600人、女子200人を数え、寄宿舎には近郷から300人が寄宿していました。

建物は2階建てで、中央の廊下を境に教室と師匠の居宅に分かれ、階上は

女子用60畳敷、男子用100畳敷の教室でした。

 

 

 

 

 

 

 

六十余州名所図会 越中富山船橋

が展示されていました。

 

初代「歌川広重」作の「六十余州名所図会」の内の1枚です。

「六十余州名所図会」とは、「広重」が晩年に手掛けた揃物で、

五畿七道の68ヶ国の名所が描かれており、全70図で構成されています。

中央に「船橋」の掛かる「神通川」が描かれています。

当時の「神通川」は現在の「松川」で、「富山城」の北を、西から東へ流れていました。

橋の上を2人の人物が歩いています。

画面上部には山が描かれており、その麓に松と家がいくつか描かれています。

画面下部には、松と家、4人の人物が描かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山寺

 

 

古来より、「富山市」の市名は、この「富山寺」の寺号に起因すると言われてきたそうです。
「富山寺」は「藤居山」と号する真言宗の寺院で、724年、「行基」が、

「大和」の国から「越中」に来たおりに、現在の「富山城跡」付近の「藤井村」に

一寺を建立し、「藤居山富山寺」と称したと伝えられています。

その後、「富山城」築城のため加賀藩初代藩主「前田利家」より寺地を与えられ、

現在地に移され「普泉寺」と改めましたが、1910年(明治43年)、

寺の名を元に復し、再び「富山寺」と称しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カトリック富山教会

 

 

教会の前には、   浦上キリシタン流配の地   の石碑が建っています。
1869年(明治2年)12月、「長崎」の「浦上村」のキリシタン3000余名が捕縛され、
「富山藩」など全国20の藩に流配されました。

「富山藩」ではキリシタン42名が浄土真宗の29の寺院に預けられ、
15歳以上の者は、首に犬のように鉄ののど輪をかけられ、

改宗するよう迫害を受けたそうです。
そんな非人道的な迫害が諸外国の厳しい非難を受けたため、
キリシタンは「富山藩」の「鈴木家老」の屋敷に全員まとめて移され、
1ヶ月間、神道の講義を聴かされたのだそうです。
その屋敷を、1814年に名古屋の宣教師が購入し、教会としたのが、
現在の「カトリック富山教会」のはじまりだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日枝神社

 

 

「大山咋神」、「大己貴命」を主祭神とし、

相殿に「天照大御神」、「豊受大御神」を祀ります。る。

毎年5月31日より行なわれる春季例大祭「山王まつり」は、

富山県内最大の祭りで、大勢の人々で賑わいます。

 

創建の年代は不詳。

古くは越中国新川郡針原に広い境内地をもって鎮座していたのを、

1335年、「桃井直常」が「北条時兼」を追討した際、敗走する「時兼」が防戦のため

社に火を放ったので、戦乱を避けて神体は現在の「富山市隠土」、「旧上新川郡中野村」と

各地に遷座しました。

1367年以降、「旧婦負郡藤居村(現在の富山城跡)」に遷し、

1573年~1592年の「天正年間」、「佐々成政」が「富山」に入城の際、

城内にあった「藤居山富山寺鎮守山王権現」を現在地に遷し、「富山」の産土神としました。

「成政」の越中退去後、1587年、「前田利長」が「富山城」に入城して以降は、

「富山前田家」の産土社に定められ、新たに社地、社殿が寄進されました。

1899年(明治32年)、境内地に新県庁を建設するのにあわせ、

かつて鎮座していた縁で「富山城跡」内に遷座することになりましたが、

市街全域を焼く大火があり、社殿を焼失しました。

これにより、「県庁」、「日枝神社」ともに旧地に戻ることが

1900年(明治33年)に決定され、1901年(明治34年)、

現在地に仮祠宇が建設され、本殿、拝殿を再建しました。

「富山大空襲」により全社殿その他建物の全てを消失しましたが、

御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前に移して被災を免れました。

1948年(昭和23年)には拝殿、1953年(昭和28年)に本殿が復興しました。

1967年(昭和42年)には、拝殿が鉄筋化されました。

 

 

 

 

 

 

境内社の、   麁香神社

 

 

「紀州本宮御木麁香」の神体を奉遷、1785年に西田地方神明社内に鎮座し、

1801年~1804年の「享和年中」に、

山王社北方の「北神明社」に奉遷、1875年(明治8年)、

「北神明社」および「中神明社」を廃止し、「日枝神社」境内に奉遷鎮座しました。

現社殿は1958年(昭和33年)に切妻造り鉄筋コンクリート造りを造営再建したもの。

 

 

 

 

 

境内末社、   稲荷社  水天宮  春日社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この時点で、11時前。

 

お目当ての富山のご当地ラーメン、

 

富山ブラック   のお店がオープンしますので、

 

お昼ご飯にラーメンを食べに向かいますニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)