<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(1日目②・富山市内散策) | 花咲く旅路

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富山城址公園     にやってきました。

 

 

 

 

 

 

雪が積もっています。

 

富山の中心地にある「富山城址公園」。

7.06haの広大な敷地に「富山城」の城跡が公園として整備され、

街中のオアシス的な憩いの場として親しまれています。
園内には、メインシンボルの「富山城」があり、内部は「富山市郷土博物館」になっています。

東洋の古美術等を展示している「佐藤記念美術館」、

四季を感じる「日本庭園」や「松川茶屋」などがあります。
 

「富山城」は1543年、「畠山氏」の守護代であった「神保長職」が築いたと伝わります。

明治までは城のすぐ北を「神通川」が流れており、これが天然の堀となっていました。

1560年)、「長職」は「長尾景虎」に城を追われ、

その後は「上杉氏」、「神保氏」、「一向一揆」などの間で争奪戦が繰り広げられました。

1573年~1592年の「天正年間」には、

「織田信長」が家臣の「佐々成政」に「富山城」を与えています。

1582年の「本能寺の変」後、「成政」は、

「羽柴秀吉」と対立の末降伏し、城は破却されました。

ここを自らの隠居城として改めて整備したのは、加賀藩初代藩主の「前田利長」です。

「本丸」や「西の丸」など中心部の構造は、

「豊臣秀吉」の「聚楽第」を参考にしたとも言われています。

「天守」は、幕府の築城許可書には記されていますが、実際には築かれませんでした。

加賀藩3代「利常」は1639年、次男の「利次」に10万石を与えて分藩します。

当初は「婦負郡百塚」に新城を築く計画でしたが、本藩と所領の入れ替えを行った上で

「富山城」を居城とした「富山藩」が成立しました。

「明治時代」になり、「本丸」には「富山県庁」が置かれました。

火災や空襲などもあり、城跡のほとんどの建造物は失われてしまいますが、

1954年(昭和29年)、「富山産業大博覧会」の開催に合わせて、

「犬山城」や「彦根城」を参考に、3層4階の「模擬天守」が造られました。

現在は、「本丸」と「西の丸」の一部が石垣や水堀とともに残り、

「模擬天守」は「富山市郷土博物館」になっています。

唯一の現存建築物は「千歳御門」になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山市郷土博物館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石垣には、巨大な「鏡石」が配されます。

これは権威を示すためのものだとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「野面積み」の石垣。

自然石を石垣とした積み方で、「富山城」では、河川の玉石の丸い面を残しているのが特徴。

石と石の隙間が小石や割石などで埋められ、排水や積み石の安定をはかっています。

 

「富山城」の石垣は、富山を隠居の地とした加賀藩第2代藩主「前田利長」が、

1605年以降に整備した石垣がはじまりと考えられています。

その後、1661年以降に、富山藩初代藩主「前田利次」が改修し、

現在見られる石垣となっています。
「富山城」は土塁主体の城郭であり、石垣は、城内中枢部を守る、

「鉄門」、「搦手門」、「二階櫓門」の3ヵ所に築かれていました。

現存する石垣は、富山県内の「早月川」や「常願寺川」産の玉石などを割って使用したり、

あるいはそのままの形の石が「野面積み」技法で積まれています。

「鉄門」の内桝形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」技法の部分もみられます。また石垣の内部は外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。
富山城の石垣の特徴として、「鉄門」内桝形の「鏡石」をあげることができます。

「鏡石」とは、石垣の石材のなかでも特に巨大な石を指し、設置目的については、

城主の権力を見せつけるためなど、いくつかの理由があげられています。


 

 

 

 

 

 

 

千歳御門

 

富山藩10代藩主「前田利保」が隠居所として造営した「千歳御殿」の正門で、

1849年に建築されました。

「富山城」で唯一現存する「千歳御殿」創建当初の建造物であり、

江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知る上で価値が高いものです。

総欅造りの三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、桁行6m、梁間1.9m。

同一の建築様式の城門は、「東大の赤門」として知られる、

「旧加賀屋敷御守殿門」など、数少ないそうです。

明治初期に門が解体された際、富山市米田の豪農「赤祖父家」に払下げられ

移築されていましたが、所有者が富山市に寄贈したため、

2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて公園内に移築されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石垣の石材が展示されていました。

 

 

 

 

 

 

重なった石材。

別々に使われといた石材が、

偶然ぴったりあいました。           櫓門の礎石も並んでいました。

 

 

 

 

 

 

佐々成政歌碑          こちらは何の石碑かは不明。字が読めず。

 

 

「佐々成政歌碑」

”何事も かはりはてたる世の中に 知らでや雪の 白くふるらん”

1585年、「豊臣秀吉」の大軍に「富山城」は包囲され「佐々成政」は降伏します。

そのときに詠んだ句といわれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦災復興記念像(天女の像)


 1945年8月2日未明、「富山大空襲」がありました。

米軍が狙った区域の99・5%が破壊され、死者は約2700人にのぼったとされます。

1974年(昭和49年)に戦災復興記念で建造されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

       前田正甫像      殉職警防団員之碑

    

 

前田正甫像」

富山藩第2代藩主。

初代藩主である父「利次」の後をうけ、文武の振興を図り、

新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。

古銭収集家という文化人としての性格も知られています。

「正甫」は富山薬売の基礎を築いた人物としても有名です。

1690年、「正甫」が参勤交代で「江戸城」に登城した折、

とある大名が激しい腹痛を訴えました。

そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。

その様子を見た諸大名は、「反魂丹」の効能に驚き、

自分の領内での販売を求めるようになったため、

正甫の命で諸国に行商させたのが富山薬売の始まりであるという伝説です。

この伝説により、「正甫」は”富山売薬を広めたお殿様”として、

今でも市民の間から親しまれているのです。
この「正甫像」は、1954年(昭和29年)に建てられました。

 

殉職警防団員之碑」

1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念して建立。

「警防団員」とは、戦前の名称で、現在の「消防団員」をいいます。
  水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、

その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 「富山大空襲」には奇跡的に戦禍を免れています。
    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「富山市郷土博物館」に入館します。

 

1954年(昭和29年)、「富山城址」一帯で「富山産業大博覧会」が開催されました。

これは、「富山大空襲」によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の

復興事業完了を機に開催されたものです。

その際、記念の恒久建築物として建設されたのが「富山市郷土博物館」です。

「旧本丸鉄門跡」の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、

望楼を乗せた3重4階の「天守」、2重2階の「小天守」など、

城郭の意匠でまとめられています。

その外観は、「彦根城」や「犬山城」などの現存天守を参考に設計されており、

戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。

博覧会の会期中は「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、

最上階の展望台からは富山市街のみならず「立山連峰」が一望できたため、

多くの人で賑わいました。
会期終了後は「郷土博物館」として活用され、

郷土のことを紹介する中心的な博物館であるとともに、

中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。
 

戦国時代の築城から、明治の廃城後、現在にいたるまで約460年にわたる

「富山城」の歴史を紹介する常設展示、関連する企画展示を行っています。

収蔵品は富山藩・富山市の歴史・文化に関わる歴史資料、

郷土にゆかりの深い美術工芸品が中心です。

内部は写真撮影は禁止でした。

 

 

 

 

天守からの眺め。

 

 

 

 

 

 

 

 

富山は、この山々の景色が圧巻ですね~

冬は空気が澄んで、雄大な山々がめちゃくちゃ間近に感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐藤記念美術館

 

 

「砺波市」出身の実業家で、茶人であった「佐藤助九郎」が収集した作品を中心に、

日本の近世絵画や工芸品、東南アジアの陶磁器など、主に東洋の古美術を展示しています。
館内には展示室のほかに、佐藤家より「助庵」「柳汀庵」の2席の茶室とともに、

総檜造りの書院座敷が移築されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

立山スノータワー  というモニュメント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)