<東京都>~駒込から谷中へ・年の瀬寺社仏閣巡り① | 花咲く旅路

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毎年、年末年始は旅行に出かけ、その旅先で年明けを迎えるのが恒例なのですが、

 

2015年から2016年にかけての年末年始は、

 

その時住んでいた「東京」の年末年始を堪能しようと、自宅で過ごすことにしました。

 

 

関西地元の自分にとっては、居住地ですが「東京」の正月を味わうのも、

 

ある意味、旅先でお正月を過ごすようなもの。

 

交通費がかからないのもグッドですね~

 

 

 

 

 

 

 

 

年末年始休暇初日の30日は二日酔いで体調も優れず、家でまったりしておりました。

 

31日は、しっかりとおでかけし、「東京」の年の瀬の雰囲気を味わいます。

 

 

選んだ場所は、「駒込」から「谷中」まで、寺社仏閣を巡るコースです。

 

 

 

 

 

 

11時に自宅を出発!

天気もよく、寒さも緩い日でした。

体調も回復して、快調ですニコニコ

 

山手線で「駒込駅」まで向かいます。

年の瀬で忙しない日ですが、電車には休日のゆったりした空気が流れていました。

外人観光客が結構乗車していました。

 

 

 

 

 

 

駒込駅     には12時前に到着しました。

なかなか降りることのない駅です。

「六義園」行くときくらいですね、使うのは。

 

 

 

 

 

 

その   六義園   の前を通ります。

年末年始は休園です。             本郷通り     を往きます。             

 

 

 

 

 

町、人はまばら。

 

 

 

 

 

 

 

 

富士神社

 

 

1573年に「本郷」に築かれた「冨士大権現」が、「加賀藩」上屋敷の敷地となったため、

1628年頃、「日光御成道」沿いの現社地に遷座したのが「駒込富士神社」です。

「本殿」は大きな「富士塚」の頂きに鎮座しています。

「駒込富士」の斜面には「富士山」から運んだ溶岩が配されています。

1356年~1361年の「延文年間」にはすでにこの地には、

「富士塚」と呼ばれる大きな塚があったそうです。

塚は一説には前方後円の古墳と云われています。

 

 

 

階段で「駒込富士」に登ります。

 

 

 

 

「富士塚」の上に「本殿」が鎮座。

現存する社殿は、1961年(昭和36年)の再建で、コンクリート造りです。

 

 

 

 

 

 

 

1573年5月、「本郷村」の名主「木村万右衛門」と「牛久保隼人」の夢枕に、

「木花咲耶姫」が立ち、富士山本宮「浅間大社」から「木花咲耶姫」を勧請して創建。
「富士山」そのものがご神体で、「富士山麓」の洞窟は、

「木花咲耶姫」の胎内ということで、「胎内巡り」なども行なわれました。
これが江戸時代に「江戸」を中心に東国に栄えた「富士講」です。

江戸時代中期には「江戸八百八講、講中八万人」と、江戸八百八町に講が組織されましたが、

この「駒込」の「富士塚」は江戸時代の初期に築かれ、江戸の「富士講」のなかでも

有名な「富士塚」として信仰されました。

「駒込」には「富士講」中興の「食行身禄」が住んでおり、

1733年6月10日に江戸を出立して、

「富士山」七合五勺目の烏帽子岩で断食行を行ない、35日後に入定しています。
「駒込」に巨大な「富士塚」が造られたのも、

「身禄」を中心にした「富士講」の信者が周囲に多かったからだと考えられます。

 

「富士塚」は関西では見られないので、なかなか興味深いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江岸寺

 

 

「駒込高林寺」2世「白洲金龍和尚」が開山、「鳥居忠政」が開基となり、

1596年、「お茶の水」付近に創建、「明暦の大火」の後、現在地へ移転したと云います。

「鳥居家」の江戸の菩提寺です。

「忠政」の父「元忠」は、「今川義元」の人質となっていた「徳川家康」に仕えました。

人質解放後は、「一方ヶ原の戦」、「長篠の合戦」等で、

「家康」に付き従い、輝かしい武功を立てました。

1590年、「家康」関東入国の際は、

「下総矢作(現千葉県佐原市)」4万石を拝領しました。

1600年、「関が原の戦」では「家康」から「伏見城」の留守番を命じられました。

西軍に「伏見城」の明渡しを命じられた時、

これを拒否し「石田光成」等の総攻撃を受け、落城しました。

これが「関が原の戦」の導火線となりました。

その子「忠政」は「大阪の陣」では、「江戸城」の留守居役を勤め、その後、

東北の押さえの地、「山形」22万石を与えられました。

「忠政」は「三河譜代」の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

天然寺

 

「然蓮社天誉上人自性秀公和尚」が、

1624年~1644年の「寛永年間」に創建したと伝えられます。

 

このあたり、他に「長源寺」、「円通寺」、「大運寺」が建ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本郷通り」を逸れて、「天祖神社」へ。

 

 

 

 

                      「旧町名」の案内板が立ちます。

                      こーいうのは散策好きには有難いですね。

 

 

 

 

 

 

鳥居が見えてきました。            天祖神社 

 

 

江戸時代には「駒込神明宮」と呼ばれ、「駒込村」の総鎮守として信仰を集めた社です。

祭神が「天照大神」であることから「伊勢神宮」の流れをくむ「神明造り」の神殿です。
1189年、「源頼朝」が、「奥州藤原泰衡」追討の途中この当りに寄った折、

夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、家臣「藤九郎盛長」に探させたところ、

松の枝に大麻が見つかり、それで「頼朝」は神明を祀ったと云います。

「江戸砂子」によれば、直径1.2mあまりの神木でしたが、

1716年~1736年の「享保年間」に枯れました。
その後、宮守りもなく神社は跡絶え神木のもとに小さな祠のみとなりましたが、

1648年~1652年の「慶安年間」に「堀丹後守利直」が再興しました。

「第二次世界大戦」の空襲により焼失しましたが、戦後再建しました。

 

 

 

 

 

 

境内社が建ちます。

 

 

 

 

                       こちらの建物は、

神楽殿。                   神輿とか入ってるんでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

駒込名主屋敷

 

 

「大阪夏の陣」の後、「豊臣」方の残党としてここに亡命し、

当時、「傳通院領」であった駒込の開拓を許され、名主を務めた「高木家」の屋敷です。
現存のものは1717年の築造と伝えられます。

一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった

式台付きの玄関があります。
町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、”名主様玄関の裁き”と言われました。

外観の見学のみで内部には入れません。

 

「薬医門」形式の「表門」をくぐると、奥に「主屋」と「土蔵」、

大正末期に増築された「離れ」があります。
前庭の脇にある洋館は、昭和初期に接客用として建てられました。

主庭の隅には、「駒込名主屋敷」より「不忍通り」へ下る、

「稲荷坂」の由来となった「稲荷様」が祀られています。

 

 

 

 

 

 

 

「歴史と文化の散歩道」の案内板。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大きなお寺が現れました。

吉祥寺

江戸時代の   山門

 

 

1458年、「太田道灌」が「江戸城」を築城する際、

井戸の中より「吉祥」の文字を刻した金印が発見され、これを瑞祥として、

「青巌周陽禅師」を請して開山とし、「江戸城」内に一寺を建立しました。

寺内に設けられた「旃檀林」は、宗門の禅学を修得する道場として、

常時1000人を下らぬ学僧を収容し、幕府の学問所「昌平黌」と並ぶ漢学の研究所として、

その偉容を誇りました。
この「旃檀林」が現在の「駒沢大学」の前身となります。

1657年の「明暦の大火」によって焼失し、現在の地に移建され、

七堂伽籃を建立し、「旃檀林」の学寮も27棟を数え、府内第一の巨刹となりました。

「第二次世界大戦」で堂宇は「山門」と「経蔵」を残し消失し、

1953年(昭和28年)、「仏殿」と「書院」を再建、

1964年(昭和39年)、「本堂」を建立し、従来の「仏殿」は「本堂」の後に移し、

階上を「開山堂」、階下を「坐禅堂」としました。

広大な境内には、諸大名や有名知識人の墓が多く、「鳥居耀蔵」、「榎本武揚」、

「川上眉山」、「二宮尊徳」などのお墓があります。

「山門」に入ると「諏訪明神」、「茗荷稲荷大権現」があり、

「お七・吉三の供養塔」も建立されています。

ぬれ仏の「お釈迦様」は、江戸期無縁仏のために多くの人々によって建立されたものです。
現在の「武蔵野市吉祥寺」は、往年当時の開墾地であり、

「吉祥寺」の別墅地であったため「吉祥寺」の名称が残りました。

 

 

 

 

                      1722年鋳造の、

本堂              吉祥寺大仏

 

 

 

 

経蔵              鐘楼

 

 

「経蔵」

「吉祥寺」は「曹洞宗」の修行所であり、「経蔵」は図書収蔵庫でした。

現在の経蔵は、焼け残った1686年建造し1778年に焼失した「旧経蔵」の礎石をもとに、1804年に再建したものと考えられます。

蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵がおかれ、

東京都内に残る江戸時代建造の唯一の経蔵として貴重です。

 

 

 

伽藍配置。                  小出浩平先生顕彰歌碑

 

 

「小出浩平先生顕歌碑」

1958年(昭和33年)の建立。

石碑の前面には、童謡「こいのぼり」の譜面がはめ込まれています。

作詞・作曲者が「小出浩平」とあります。

新潟県南魚沼郡塩沢町の出身の音楽教育者。

初等音楽教育の重鎮で、「学習院」時代、

初、中等科の「明仁皇太子」、天皇「徳仁」に音楽を教えた人物です。

 

 

 

 

お七・吉三の比翼塚        茗荷稲荷大権現

 

 

「お七・吉三の比翼塚」

1966年(昭和41年)建立。
1683年1月25日、「駒込」の「大円寺」から出火した「天和の大火」で、

「本郷」に住む八百屋「市左衛門」の一家は焼け出され、

檀那寺である「吉祥寺」に避難します。
そこで「市左衛門」の娘「お七」は寺小姓の「吉三郎」と恋に落ちます。

1683年1月、お七は、火事になれば「吉三郎」に会えると、

新築となった我が家に火を放ちます。
火はすぐに消し止められ小火にとどまりますが、

「お七」は、「鈴ヶ森刑場」で火炙の刑に処せられています。
大坂で活動していた「井原西鶴」が「好色五人女」に取り上げて有名になった事件で、

浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、多くのフィクションが生まれています。
「好色五人女」では、「吉祥寺」の「吉三郎」ということで、

「吉祥寺」境内に「八百屋お七・吉三郎比翼塚」が建立されました。

 

「茗荷稲荷大権現」

「明暦大火」の際府内よりこの地に移り、「徳川家康」ゆかりの「毘沙門堂」脇の庚申塚に

「茗荷権現」あり、「寛文年間」疫病まんえんの折祈願の人が絶えず、

特に痔病の根治に霊験ありとされ、「茗荷」を断って心願する人が多かったようです。

戦災で諸堂消失するも1953年(昭和28年)、この地に再建、

堂裏にある「稲荷権現碑」は下総国府台「八十右ェ門」なる者が、

1861年~1864年の「文久年間」建立したものです。

 

 

 

川上眉山の墓           二宮尊徳の墓

 

 

「川上眉山」は明治期の小説家、

「二宮尊徳」は言わずと知れた江戸末期の農政家で、全国の学校に像が建ってた人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)