<東京都>~駒込から谷中へ・年の瀬寺社仏閣巡り② | 花咲く旅路

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「吉祥寺」を拝観し、その前のお寺へ。

 

このあたり、お寺が林立しています。

 

 

 

 

 

 

 

養昌寺

 

 

 

 

僧「傳春」が「福聚院」と号して「池之端」に創建、

1631年、「本郷湯島天神台」に移転、「明山密大和尚禅師」を開山に迎えて、

「養昌寺」と改号、1683年に現在地へ移転したといいます。

 

 

 

 

境内には、

半井桃水の墓    があります。

 

小説家です。

1860年の生まれ。対馬に生まれ、名は冽。桃水は号。別号は菊阿弥。
 「共立学舎」に学び、「東京朝日新聞社」に入社して、新聞小説作家として活躍しました。

「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著しました。

「樋口一葉」の師として、また「一葉」の思慕の人としても知られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「養昌寺」の隣には、

南谷寺

 

 

1615年~1624年の「元和年間」に「万行和尚」が、

「伊勢国赤目山」で不動明王像を授けられました。
その後、尊像を護持して諸国をめぐり、「駒込村」の「動坂」に庵を開き、

「赤目不動」と号しました。
1624年~1644年の「寛永年間」に、徳川3代将軍「家光」が、

鷹狩の途中に「動坂」の庵に寄り、「目黒不動」、「目白不動」に対し、

「目赤」と呼ぶべしと命じ、現在地を与えました。
江戸の「五色不動」のひとつとなります。

ちなみの「江戸五色不動」は、「目黒不動」が「目黒区」の「滝泉寺」、

「目白不動」が「豊島区」の「金乗院」、「目青不動」が「世田谷区」の「教学院」、

「目黄不動」は2説あって「台東区」の「永久寺」か、

「江戸川区」の「最勝寺」とされています。

 

「第二次世界大戦」による戦災で「本堂」、「不動堂」などが焼失しましたが、

「本尊」は難を逃れ、戦後、1958年に「本堂」、1983年に「不動堂」が

復興され現在に至っています。

 

 

 

目赤不動尊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本郷通り」から「動坂」に向かう道へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高林寺                   お隣は小学校。

 

 

1596年、幡羅郡下奈良寺集福寺11世「桂岩和尚」が、

「神田山」北側の「金峰山神杜跡地(現お茶の水坂に面した元町公園辺り)」に

寺地を拝領して創建、1657年の「明暦の大火」の後、現在地へ移転したといいます。

「神田山」に在った時には、「徳川家光」が立ち寄り、

飲したお茶から、”お茶の水”という地名がついたと云われます。

境内墓域には、「大村益次郎」、「橋本左内」、「福沢諭吉」などが学んだ

「適塾」の主催者「緒方洪庵」や、アララギの歌人「岡麓」などの墓があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

養源寺

 

 

 

 

「春日局」の子息「稲葉丹後守正勝」が開基、

「正勝」の手習師範だった「秀嶽和尚」が開山となり、1607年、「湯島天神」下に創建、

「明暦の大火」により現在地へ移転したといいます。

境内には「稲葉正勝」の古塔があり、また、
江戸時代の漢学者「安井息軒」、明治時代の啓蒙学者「西村茂樹」の墓があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常徳寺

 

 

 

 

館内に「身代わり地蔵」が祀られています。

 

 

 

 

 

建蓮社「立誉善達上人」が1630年に創始、幡随院7世「貴譽萬量」が

1662年に「湯島」切通に起立したといい、1683年に現在地へ移転したといいます。

このお寺は、「身代わり地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像で知られています。

江戸時代の地図には「身代地蔵常徳寺」と地蔵名の方が大きく記載されるほどの知名度でした。

ある時、第2世「転誉上人」が病床に伏し、右目が失明しそうになりました。

そこで、この地蔵に祈ったところ、「転誉上人」は全快し、

代わりに地蔵の右目が腫れていたといいます。

そのことから「身代わり地蔵」として崇められるようになりました。

「第二次世界大戦」の空襲で、大きすぎたため運び出すことができず焼失しました。

2002年(平成14年)に、2代目の「身代わり地蔵像」が再建されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳源院

 

 

「海禅寺」を開山した「勅徳賜無礙浄光禅師大和尚」が開山となり、

1630年に「湯島」に創建、1682年に現在地へ移転したといいます。

こちらのお寺には、「日限地蔵尊」が祀られています。

1793年に、近くの「動坂」に建立されたものです。

以来”動坂の日限り地蔵”として崇敬されてきました。

願いごとを日を限って祈願すれば、不思議と満願の日に先立ち霊験あらたかなることより

「日限地蔵」といわれてきました。

1985年(昭和60年)に「動坂」より「徳源院」に移されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蓮光寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教蓮社「尊誉上人露宿玄的大和尚」が開山、「戸田采女正」が開基となり、

1602年に「湯島」に創建、「明暦の大火」で罹災したため現在地へ移転したといいます。

大垣藩主「戸田家」の墓所となっていた他、江戸時代の北方探検家の「最上徳内」、

江戸時代の儒学者「平野金華」の墓があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天栄寺

 

 

 

 

境内に建つ、   駒込土物縁起

 

僧「天輪」が開山となり、1617年、「本郷菊坂」に創建、

1660年に現在地に移転したといいます。

 

「駒込」は、江戸時代、「神田」、「千住」と並び”三大青果市場”といわれました。
起源は1615年~1624年の「元和年間」といわれます。
当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、

付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こりだそうです。
また、近くの「富士神社」の裏手は「駒込ナス」の生産地として有名であり、

大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜(土物)が取り引きされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白山神社

 

 

2014年の6月に「あじさい」鑑賞に訪れた神社です。

 

948年に、加賀一の宮「白山神社」を武蔵国豊島郡本郷元町に

奉勧請したのが始まりといわれます。

「徳川将軍家」の信仰が厚く、1616年には2代将軍「徳川秀忠」の命をうけ、

小石川白山御殿に移転しましたが、5代将軍「家綱」の用地となったため、

1655年に現在の白山へ再度移転しました。

祭神は「菊理姫命」、「伊弉諾命」、「伊弉冊命」。

縁結びの神としても知られます。

毎年6月には境内にさまざまなあじさいが咲き乱れ、

「文京あじさいまつり」の会場として大勢の観光客が訪れます。

開催期間中の週末には、歯痛止め信仰で知られるこの神社ならではの、

ユニークな歯ブラシ供養も執り行われます。

 

 

 

拝殿               八幡神社

 

 

 

 

松尾神社            神輿庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「旧白山前町」の旧町名案内板。

 

 

 

 

閑静な住宅が並びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

円乗寺

 

 

 

 

「圓栄法印」が1581年に「本郷」に「密蔵院」として創建、

1620年、「實仙法師」が「圓乗寺」と寺号を改め、

1631年、現在地へ移転したといいます。

1683年1月25日に発生した、「天和の大火」の起因となった、

「八百屋お七」の舞台ともなった寺院で、

現在も「八百屋お七」の墓所が残されています。

先ほどの「吉祥寺」にも、比翼塚が建っていましたね~

 

 

 

 

八百屋お七の墓

 

 

 

 

墓は3基ありますが、中央は寺の住職が供養のために建てたもの。
右側は1789年~1801年の「寛政年間」に、

「中岩井半四郎」が「お七」を演じたのが縁で建立、

左側は近所の人が270回忌法要のために建てたものになります。

 

江戸時代もようやく爛熟期を迎え、泰平の世となったとき、

「お七」の事件は当時の民衆にとって一大事でした。

放火は重罪とはいえ、戦乱時以外で女性の火刑が行われたのは、

「お七」ただ一人だったのです。
瓦版が北は蝦夷・松前、西は京・大阪、南は薩摩・琉球と、

全国津々浦々にいち早く伝わったことからも、

当時の人々の「お七」に対する気持ちがうかがえます。

「井原西鶴」は「好色五人女」の中で、

”世の中のあはれ春吹く風に名を残す遅れ桜の今日散りし身は”の

一首を辞世としています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)