<佐賀県>~2泊3日週末旅で初の佐賀大満喫!(3日目② 唐津・呼子) | 花咲く旅路

花咲く旅路

旅、グルメ、MONO、自分を幸せにしてくれるものを記録します。

 

「波戸岬」の絶景を楽しんだ後は、           名護屋城跡           へ。

 

 

唐津市と玄海町に広がる「名護屋城跡並びに陣跡」は、「豊臣秀吉」による、

1592年~1598年の「文禄・慶長の役」の出兵基地であり、

日本列島と朝鮮半島との長い交流史のなかで、その関係を一時断絶させた不幸な歴史の舞台です。

「名護屋城跡」を中心に半径3kmの範囲にひろがる遺跡群は、

全国から160を超える大名が集結し約130もの陣屋を構築して在陣するという、

日本の歴史上にも類を見ない、広域かつ特異な遺跡群です。

 

「名護屋城」は1591年から1592年にかけて、わずか5ヶ月で完成した、

広さ17万㎡の巨大な城で、当時は「大坂城」に次ぐ全国2番目の規模でした。

全国から集まった武士と商人で人口20万人を超える城下町ができました。

「秀吉」ら朝鮮へ渡海しなかった大名たちは、

「能楽」や「茶の湯」といった「桃山文化」を名護屋に持ち込み、

広大な御殿建築や10基を超える「重層櫓」、「茶室」、「能舞台」まで備わり、

「伏見城」や「聚楽第」にも匹敵する絢爛豪華な城でした。

 

「文禄・慶長の役」では朝鮮半島から多くの人々が大名によって日本に連れて来られました。

その中の優れた技術を持つ陶工は九州各地で製陶を行いました。

佐賀県を代表する「唐津焼」、「有田焼」なども彼らが作り始めたと云われています。
 

1599年に「秀吉」が病死すると戦いは終結し、「名護屋城」は廃城となり、

城の用材は「唐津城」の資材にされました。

その後残っていた石垣も、1638年の「島原の乱」で廃城であった「原城」が、

不穏分子に利用されたことを教訓として破壊されたと考えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたり、いろんな武将の陣跡が残っており、案内板がたくさん出ています。

 

蜂須賀家政陣跡             九鬼嘉隆陣跡

 

 

「九州オルレ」の「唐津コース」にもなっており、ゆっくりと歩いて陣跡を散策したかったのですが、

この日は同行のSさんもおられ、私のハードな散策に付き合わせるのも悪いし、

この後も予定がたっぷりなので、まずは「名護屋城跡」をしっかり観光することとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場に車を停めて、登城します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手口     から入城していきます。

石垣が圧巻ですね~

 

 

 

 

 

 

城内の    溜池     が見えます。

 

 

 

 

 

 

巨大な敷地です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大手口」は、城の正面入口で、

ここから南に向かって「唐津」の通じる「太閤道」と呼ばれる道が伸びています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                眺望が良く、城下の町並みが見渡せます。

                                陣跡の案内板も建てられてありました。

大きな石垣が聳えます。                 ここからなら位置関係がよくわかるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

                               歩いて来た道が一望です。

                               今回、時間の関係で行きませんでしたが、

                               県立の   名護屋城博物館

東出丸                        が見えます。  

 

「東出丸」

「大手口」から登城坂を登ると、地元で”千人枡”を云われる「曲輪」があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三ノ丸

 

 

「本丸」の東側に位置し、「本丸」を守る重要な区域です。

ここから「二ノ丸」にも通じています。

東西75m、南北110mの規模で、井戸の跡もみられます。

内部は南側の区画と、一段高い北側の区画に分かれています。

南側の区画は井戸跡を中心に、「馬場」、「二ノ丸」、「本丸」、「東出丸」と連結し、

北側の区画は、「水手通路」や「本丸大手」と連結しています。

往時は、「二階櫓」や単層の「櫓」、築地塀、脇門を備えた櫓門、

多聞櫓や塀、内部には檜皮葺の御殿があったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

馬乗り馬場                 本丸大手門

 

 

「本丸大手門」

「三ノ丸」から「本丸」への入口に、二層の豪壮な門が築かれていました。

後に、宮城県仙台の青葉城主「伊達政宗」が、城の大手門に移したと云います。

1945年(昭和20年)、第2次世界大戦の空襲で焼失しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登城して15分ほどで、  本丸         名護屋城址碑    が建ちます。

に到着しました。                       揮毫は「東郷平八郎」。                       

 

 

見事な石垣の上にある「本丸跡」は東西130m、南北125m。

「天守台」や「多門櫓」の跡、築城初期の石垣の遺構が残されています。
天守からは晴れていれば壱岐、対馬を眺望し、水軍の出航などを見ることもできたと推測できます。
「本丸」の西側、南側はある時期に拡張され、旧石垣の上に新しく石垣が構築され、

「多門櫓」とそれに続く「南西隅櫓」が築かれ、防御力を増しています。

「多聞櫓」は、長屋状の櫓で、武器や食糧の貯蔵庫として機能したので、

「名護屋城」が単なる外征基地というだけでなく、実戦を意識していたことがわかります。

「本丸」には、南北70m、東西約70mの「本丸御殿」が建てられていました。

「豊臣秀吉」が在城した際には、「本丸」ではなく、

”黄金の茶室”を築いた「山里丸」を居館にしていたそうです。

 

 

 

 

 

青木月斗句碑              まだ発掘調査などが続けられているようです。

 

 

「青木月斗句碑」

”太閤が 睨みし海の 霞かな”

1933年(昭和8年)、「正岡子規」門下の俳人「青木月斗」が、名護屋城を訪れた際に詠んだ句です。

 

 

 

 

 

「本丸」からの眺望。

見事です!

「玄界灘」が一望。

晴れていれば、「壱岐」、「対馬」も望見できます。

秀吉もこの景色を眺めていたのかと思うと、感慨もひとしおです。

 

 

 

「馬渡島」、「加唐島」、「加部島」などが一望。

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台

 

「本丸」の西北の隅、標高89mの山頂部分に、22m×18mの「天守台」があり、

高さ25m~30m、5層7階(地上6階、地下1階)の「天守」が建っていました。
発掘調査では、天守を支えた礎石、地階部分「穴蔵」の石垣、

「穴蔵」への2ヶ所あった入口が発見されています。
礎石は16個が現存していますが、礎石跡の穴の数などから、24個あったと推測されています。
豪壮な「天守」は、江戸時代の初め、この地が「唐津藩」の領有となったため、

幕府への大いなる脅威となるため破却されています。
現在、「天守台」の石垣がないのも、この破却の際に石垣まで破壊、

一部を「唐津藩」の「古城番」に転用したためです。

 

 

「天守台」には礎石が残り、

石を敷き詰めて場所が記されています。        「本丸」には「三角点」もありました。

 

 

 

 

 

 

 

「本丸」の西側、南側は拡張された部分。

旧石垣の上に新しく石垣が構築され、「多門櫓」とそれに続く「南西隅櫓」が築かれました。

 

本丸多聞櫓跡               本丸南西隅櫓跡

 

 

「本丸多聞櫓跡」

「多聞櫓」は、長屋状に造られた櫓で、武器や食糧の倉庫として使われました。

当時の礎石がほぼ1m間隔で南北に長く並んでいる様子が発見されています。

全長約55m、幅約8mの規模をもつ、長大な建物でした。

 

「本丸南西隅櫓跡」

「隅櫓」は曲輪の隅に配された建物で、「天守閣」と同様に、物見の役割を果たしていました。

全体の規模は南北10m、東西10m、二階建ての建物でした。

 

 

 

 

 

 

本丸新石垣櫓台              櫓の礎石。

 

 

 

 

 

 

「三重津海軍所跡」のように、あちらはスコープでしたが、こちらでは、アプリにより、

タブレットを使用してバーチャルで当時の風景を再現していますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本丸」から各「曲輪」が眺望できます。

 

 

 

二ノ丸

 

「本丸」の西側にあり、武器、兵糧などを保管する建物があったと推測されています。

ここからは、「長屋建物(掘立柱建物)」の跡が見つかっています。

「長屋建物(掘立柱建物)」は地面に穴を掘り、柱を建てるもので、建物は3棟あり、

そのうちの2棟は幅5m、長さ20mで、4部屋に分かれた長屋風になっています。
この2棟の西側に、幅3m、長さ6mの小型の建物が建っていました。

「長屋建物(掘立柱建物)」は恒久的な施設ではなく、築城時に使われた施設だと推測できます。

「二ノ丸」は、後世に開削され、大きく改変しているので、

往時の遺構の跡は、この3棟以外には見つかっていません。
「肥後名護屋城図屏風」には複数の御殿風の建物、西側の石塁上には多門櫓が描かれているので、

「二ノ丸御殿」が建ち、政務を司るような機能を有していたとも考えられます。

「本丸」の東側にある「三ノ丸」とは、「本丸」の腰部分にある「馬場」で連絡しています。

 

 

 

 

 

 

 

遊撃丸

 

「本丸」の北西、「二ノ丸」の北に配された曲輪です。

1593年に講和使節として来日した「沈維敬(遊撃将軍の使者)」の宿舎となったことから、

この名称が付けられたと云われています。

「文禄の役」に「明」の兵部尚書「石星」の使節として「遊撃将軍」として

朝鮮に派遣されのが「沈惟敬」です。

1593年、「沈惟敬」は、朝鮮で「小西行長」と講和交渉をし、

「明」は財政難もあって戦争の早期決着を図りました。
もともと「豊臣秀吉」の朝鮮出兵の最終目的は、「明」の制圧にありました。
その足がかりとして、まずは「明」と朝貢関係にあった朝鮮を攻略しようと考えたのです。
1953年5月23日、「明国」使節の「謝用梓」と「徐一貫」は「石田三成」、「小西行長」に伴われて、

九州に渡り、「名護屋城」で「豊臣秀吉」と対面していますが、

そのとき滞在した場所が「遊撃丸」です。
「秀吉」や大名は、使節に対し正式な「御装束」で応対し、

「秀吉」が山里丸に築いた”黄金の茶室”で食事、茶会、舟遊びなどで饗応し、

6月28日まで名護屋に滞在、出立に際して「秀吉」は講和のための七条件を提示しています。

 

「沈惟敬」の一連の交渉は、「朝鮮の役」和議成立後、日明両国を欺瞞していたことが発覚し、

「沈惟敬」は日本軍へ投じようとしますが失敗し、「明」で処刑されています。

「沈惟敬」と「小西行長」は、「豊臣秀吉」の強硬な姿勢、そして明国側の利益の板挟みとなったため、

やむをえず「秀吉」と、明国首脳を欺いたのだと推測できます。
2人は、「豊臣秀吉」が「明皇帝」に誼を通じる文書を偽造し、「小西行長」の家臣「内藤如安」を

日本の使節に仕立てて、明国に派遣しています。

「内藤如安」の明国派遣後には、和議の実現には「秀吉」の降伏文書である「関白降表」が

必要となり、ついには降伏文書を偽造することに発展します。

1597年の「慶長の役」後、1599年にも「秀吉」は大規模な出兵を計画しますが、

1598年に「伏見城」で没し、「徳川家康」ら五大老は朝鮮で戦闘する諸将に帰国命令を出し、

ようやく終結となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城郭がよくわかって楽しいお城です。

海を望む雄大な城跡。

今まで観てきたお城の中でも、トップクラスに気にいりましたドキドキ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬場櫓台

 

 

 

ひとりで来てたら、遠慮することなくひたすら歩いて隅々まで見学してたやろなー

でも、Sさんに連れてきて貰ったことで、こんな素晴らしいお城を知ることが出来たので感謝です。

いつの日か、再訪してじっくり見てやろうニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1時間ほど見学しました♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)