「ある」とみなが信じることで「現実になる」…
それが「呪術」…
おカネがそうであり、法律がそうである。
そして、宗教や神話がそうである。
現代は、「信用経済」。実体経済の何倍も「信用」の経済がある。
そして、これらはバランスシート上に同額の「資産」と「債務」をうみだしていく。
財務省は私利私欲を果たすために「資産」を隠して「債務」だけを強調し、
国民に「増税しないと国が破綻する」と思わせ続けている。
日本国民が世界イチのバカだからこそ、まかりとおることである。
財務省のウソを信じることでデフレ日本が実現し、
そのカネがウォール街を経由して、中国に投じられている。
「中国が脅威」だというのであれば、財務省をまずなんとかしなければいけない。
実際、このように…
「ありもしないもの」が「実体化」し、危機を生み出している例がある。
…で、きょうは金融経済ではなく…「自分」というものに焦点を当てる。
最近も述べたように…
「信仰心」とは、「神頼み」のことではない。
「信仰心」は「射幸心」の対極にある。
「神頼み」をする人は、「射幸心」で祈っている。
それでも「願いが叶う」ことはある。
だが、その多くは「悪魔との契約」になってしまう。
悪魔とは、願いを叶えることで威を示し、忠誠を求めてくるものだから。
だが、神様は、まるで犬やハトにエサをあげるがごとくに願いを叶えてくれる。
神様にとって、人間も犬やハトと大差がないからである。
それでも、自分と「感応道交」できる「とも」とも言える存在がいたら?
神様は、もっと喜んでくれるだろう。
神様は、ぼくらの「からだ」を憑代にその力を降ろされる。
呪術師というのは、悪魔を「式」にするが…
自分が神様の「式」になろうとするならば、神様はもっと力を発揮できる。
これが、神様を「降ろす」コツである。
神様を「降ろす」ためには、「自我」は邪魔である。
だから、それを「空」にする。
すると、曇りなきガラスに光がまぶしく差し込むように神様の力が降りてくる。
まえにも述べたことだが…
「あなたの感情」は、「あなた」ではない。
それを「自分」だと思っているかぎり、神様は降りてこられない。
「あなた」の「我」が、居座って邪魔しているからである。
もっといえば、「あなたの思考」も「あなた」ではないのだが…
つまり…
「思考」にも「感情」のように気分次第で変化するものと、そうでないものがある。
指折り数えているあいだ、「あなた」は「思考」している。
そして、1+2+3+4=10…などという「答え」を出す。
そして、これが自分の求めていた「答え」だと「あなた」は「判断」する。
このように「思考」にも手続きと段階があり…
計算用紙にあれこれ書いている段階と、解答用紙に清書している段階がある。
これは、もうひとつ別の喩えをすると…ラジオのチューニングの場合である。
ピタッと一致して、初めて聞きたい番組が聞ける。
ツイッター(現X)の投稿が荒れやすいのは、
チューニングの最中の投稿するからだ。
いったん「間」を取って、
ちゃんと考えて、気持ちを整理して…
そして、10のうちの9の投稿は「ボツ」にして…
そういう投稿の仕方をすれば、もっとネット世界はマトモになるだろう。
人間の「こころ」には、いろんな「煩悩」が満ち溢れている。
それらは「自分」であって、同時に「自分」ではない。
解答用紙に清書するときの「答え」ではないのだから。
…んで、
そういう「余計な自分」をまず消去しないといけない。
「掃除」して、きれいにしなければいけない。
「みそぎ」をしたり、「まつり」をしたりというのは、
「余計な自分」を洗い流し、整理することである。
乱雑にメモしたノートをテスト勉強用などに清書することなのである。
そのとき、その作業の結果、とても「しっくりくる」ようになるはずである。
「一切無我」という。
「自我」もまた「五蘊」によって形成された「そのときのもの」にすぎない。
たとえば、楽器の演奏のとき、あるいは、絵画や習字や彫刻や…
「しっくりこない」ことが、ほとんどであろう。
そのときの演奏や練習の帳面などを「あなたの作品だ」などと言われたら?
とても不愉快であろう。
要するに、
「煩悩」というのは、「真我」に至るまでの途中経過である。
それをなるべく「掃除」して、いまある時点での「真我」…
本来のあるはずの自我に現時点で最も近い「自分」…
(それは次の機会に再生できるという保証もない…)
そういう「自分」の状態にする…チューニングする…
すると、そのときにおける最善(?)の神様が降りてくる。
戦後エゴイズムの時代に生きる人々は「自己中心的」に生きがちだが…
その「自己」、「自分」自体がそもそも「あやふや」である。
「自分」ではないものを「自分」だと錯覚し、決めつけている。
ゆえに、なかみがいつもからっぽである。
ルッキズム(みたくれ至上主義)に流れるのである。
前に述べたように…「祈る」とき…
一心に祈るのであって…
必死に祈るのではない…と述べた。
幼子のようにすなおなこころで祈ることで「つながる」…
一心にというのは、ある意味、
自分が「空」「虚」になっていなければならない。
自身の「射幸心」や世間の「常識」から自由になっていなければならない。
ところが、世間の不信心者たちは
「囚われのこころ」のまま、「自由」を求める。
だから、彼らはどんどん「不自由」になっていく。
そうしておいて、
「あいつのせい」「こいつのせい」と言っているから救われない。
こんな連中とは極力、関わらないようにする必要がある。