ちょっと、こちらの本から、いくつか取り上げようかと…
「悪魔の言葉」とか「ワルの哲学」とか、タイトルに書いてあるのに、中身は全然マトモという本を出版業界の人などは、よく書くんじゃないですかね?
善悪がひっくり返っている日本社会だからなのか…
それとも、高飛車に受け取られぬための”へりくだり”なんだろうか?
まずはこれ…
このミギーのように”種”を背負ったり、集団を背負ったりしないことが戦争回避のコツ…
みんながミギーのように「自分自身の味方」に徹するなら、ツイッターの炎上もあるまい。
当事者でもないのに、だれかの代理人を勝手に請け負って参戦するようなことをしなければ、”ボヤ”でほとんどが済んでしまうであろう。
動物も群れをなし、縄張りや序列を争うが、領域は限定されている。
ところが、人間の場合は際限がない。
とりわけ「国家」などという単なる人間牧場を「自分たちの群れ」と認知してしまうことが異常なのである。
「国家」の観念は”作り話”であり、国民は家畜という現実があるのみなのだ。
まして、「国籍」にこだわって、「朝鮮人学校が~」「二重国籍が~」などと騒ぐ手合いは、この「国家」というお伽噺を、サンタを信じる子供のごとくに信じている人たちなのだ。
こうした幼稚な人たちを扇動することで、ナショナリズムやファシズムができあがる。
自他をラベリングして、集団に分け、徒党を組んでぎゃあぎゃあ騒ぐのが日本人の習性だが、アメリカ人などにも、似たようなのがいるようである。
この集団主義から、集団陶酔、ヘイト、差別、熱狂、快楽追求といった悪魔的なもののほとんどが生じる。
ゆえに、真理真実に生きようと思えば、まず集団を捨てねばならない…
ブッダが、教団組織を作ろうとせず、孤独を好み、「サイの角のごとくひとりで歩め」と説いたのも、集団心理や集団の掟が、個人の良心を歪めるからである。
集団を捨て、肩書を捨て、序列を捨て…
ただひとりの「個人」として進む…
これが本来の「個人主義」である…
ゆえに、イエスが説いたのも”隣人愛”であった。
”家族愛”や”同胞愛”ではなかった…
それらを否定はしなかったが、説いたのは”隣人愛”…「個人主義」だったのである…
「集団を背負わない」というのは、「個人としていきる」ということであり…
その「個人主義」から、「戦争や差別のない世の中」というのが作られるのだ…
うすら日本人やうすらアメリカ人が実践しているのは、
「おひとりさま独裁主義」であって、「個人主義」ではない。
「ポピュリズム」の用語もそうだが、
「個人主義」も、正確な意味で使われないでいることが多い…
ジコチュウを「個人主義」と呼んで違和感を覚えないでいる低レベルな大学教授も…
…少なくない…
夏目漱石なんぞは、的確に「個人主義」を理解していたのだけれどね~