一切が”空”であること…一切は、相対的で、関係性のなかで”存在”している…
そのことが”わかる”ということは、一切が”無価値”であることが”わかる”ということです…
”無価値”というか…そもそも「価値も無価値もない」というべきか…
よって、このことは逆に、自分が自由に”価値”を認めることができるということを意味します。
女にとって”無価値”であっても、男にとっては”宝物”…
おとなにとっては”無価値”であっても、子どもにとっては”宝物”…
そんなこといくらでもあるでしょう?
なぜ、”市場価値”だの、”世間的価値”だので、自分の価値を決められなければいけないのか?…
ぼくたちはもっともっと自由なのです。
なのに、自分で自分を縛ってしまう人の何と多いことか…
”存在”についても同じことが言えます…
一切が”空”であるということは、一切の”存在”が、相対的で、不確定なものだということです。
たとえば、「”性格”は変わらない」などと人は言いますが、これも対人関係の変数です。
相手によって”淑女”になったり、”娼婦”になったり、乙女になったり…
この人といるといつも笑っていられる、朗らかな気分でいられる…ってこともあるでしょう?
”成長”なんてことを言う人もいますが、そういうことと関係なく、場によって空気によって、人間関係やポストによって、人は違う”性格”や一面を表すものなんです…
近頃は、”量子コンピュータ”というものもでてきて、通常、0か1かどちらか一方の値しか取れないのに、量子だと、両方とることができるとかで、とても演算速度が上がるのだそうです。
人間の”存在”や”性格”も、この量子のように「いろんな値を同時にもつことができる」のでしょう…
実際、気が短いのか長いのか、わからない、どっちも自分の”性格”ってことがあります…
実際の”存在”というのは、このように相対的かつ不確定なもので、”ある”、”ない”と必ずしもハッキリ二分できるわけでもないのです。
よって、自分の行動、選択によって、いくらでも”存在”は変わりうる…
それは、必ずしも”成長”みたいなこととは限らず、量子のように「飛び飛びの値をとる」ことがあるのです。
弱虫が、突如勇者に”変身”してしまう…みたいなことが…
そして、改めて繰り返しますが、このように”自由”で、”可能性”に拓かれているのは…
「一切が”空”」であるから…すべてが相対的で不確定で、”あいまい”だからなのです…
さて、そこでここからが”きょうのお話”なのですが…
「この世に、”絶対に確実なもの”はあるのだろうか。あるとすれば、それは何だろうか」
…と考えた人がいました…
そのひとりが、デカルトで、彼は一度一切の”存在”を疑ってみました…
すると、どこにも”絶対に確実なもの”がみつからなかったのです。
そうすると”善”だの”美”だの”正義”だのと言っても、全部あやふやで、相対的で、確実なものと言えず、”善”が”善”であることの根拠、”正義”が”正義”であることの根拠もなかったのです。
さて、そうなるといかなる学問を学び、信仰を進めても”確実”なものがなく、確かな知識や確かな信心に到達することはできないわけです。
彼は、途方にくれました…
ところが…です…彼はふと気づくのです…
この世に確かなものは何もないけれども、こうやって考え続けている自分の存在自体は、疑いようがないではないか…と…
デカルトが辿りついた唯一の”確かなもの”…
それは、「自分が思考するかぎり、自分が存在していることは疑いようがない」ということでした。
これを「”近代的自我”の発見」などと言うのですがね…
そして、この自我の自覚が、個人主義の原点なんですがね…
これって仏教でいう”自燈明”のことですよ…な~にが”発見”なんだか…
弟子がブッダに問いました…
「師がいなくなったら、私たちはどうすればよいのでしょう?(ちゃんとやっていけるでしょうか?)」
「法を頼りとし、自分を頼りとせよ。他を頼ってはならぬ…」
真っ暗闇で頼りとするのは、「法」と「自分」のふたつの”灯り”のみ…
川で溺れて流されたときに、避難する小島は「法」と「自分」のふたつのみ…
デカルトは自分の存在のみが疑いようのないことだとして、これを「哲学の第一原理」と定めたわけですが、ブッダもまた「自分」を判断の基点とするように説いていたわけです。
デカルトもブッダも、「この世に確実なものは、なにひとつない」ということを知っており…
したがって、人間は本当の意味で「知る」ことはできないということを知っていたわけです。
最後に”頼り”になるのは、自分自身であって、”神様”とかではない…
もっとも、この”神様”が、神話イメージではなく、法である場合は、”頼るべきもの”になります。
それは、北極星や海図のようなもので、「拝んでいれば助けてくれる」類のものとは別のものです。
しかし、外道や邪教の徒にとって、”神様”というのは超能力を持ったヒーローのような者でなければならないようで、取り入って拝んで、媚び諂えば、「ありがたい」ものを授けてくれることを期待するのです。
そういう”甘っちょろい”信仰が報われることなどなく…「神も仏もない」現実にぶつかって…
「神様なんていない!…いるなら、なんで救ってくれなかった?!」などと駄々をこねるのです…
甘ったれてんじゃねえ!…って思いますがね~
すでに何度か書いてきたことですが、神仏を信じない外道ばかりなんですから、「神も仏もない」世界になって”当たり前”でしょう?と…
信じてもいない者を神仏は救うことなどできません。
第一、人々を地獄に突き落としているのは人間どもであって、神仏ではありません。
だから、こう言うべきでしょう?
「この世に人間がどこにいる?どこにもいやしない。
いまいるのはニセの人間だ。こんなやつらを私は一切信じない」と…
それがなんで…
「神様などいない。神様など信じない」になるんでしょうね?
なんで人間でもないやつらを”人間”と認めて、「信じる」のですかね?
この志々雄の言うように…ちと”覚悟が足りない”ってやつなのか…
あるいは、修羅をなら”信じられる”とでもいうのでしょうか…