”われ思う…ゆえにわれあり”~自燈明 | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

一切が”空”であること…一切は、相対的で、関係性のなかで”存在”している…


そのことが”わかる”ということは、一切が”無価値”であることが”わかる”ということです…



”無価値”というか…そもそも「価値も無価値もない」というべきか…


よって、このことは逆に、自分が自由に”価値”を認めることができるということを意味します。



女にとって”無価値”であっても、男にとっては”宝物”…


おとなにとっては”無価値”であっても、子どもにとっては”宝物”…



そんなこといくらでもあるでしょう?



なぜ、”市場価値”だの、”世間的価値”だので、自分の価値を決められなければいけないのか?…



ぼくたちはもっともっと自由なのです。


なのに、自分で自分を縛ってしまう人の何と多いことか…



”存在”についても同じことが言えます…


一切が”空”であるということは、一切の”存在”が、相対的で、不確定なものだということです。



たとえば、「”性格”は変わらない」などと人は言いますが、これも対人関係の変数です。


相手によって”淑女”になったり、”娼婦”になったり、乙女になったり…



この人といるといつも笑っていられる、朗らかな気分でいられる…ってこともあるでしょう?



”成長”なんてことを言う人もいますが、そういうことと関係なく、場によって空気によって、人間関係やポストによって、人は違う”性格”や一面を表すものなんです…



近頃は、”量子コンピュータ”というものもでてきて、通常、0か1かどちらか一方の値しか取れないのに、量子だと、両方とることができるとかで、とても演算速度が上がるのだそうです。



人間の”存在”や”性格”も、この量子のように「いろんな値を同時にもつことができる」のでしょう…


実際、気が短いのか長いのか、わからない、どっちも自分の”性格”ってことがあります…



実際の”存在”というのは、このように相対的かつ不確定なもので、”ある”、”ない”と必ずしもハッキリ二分できるわけでもないのです。


よって、自分の行動、選択によって、いくらでも”存在”は変わりうる…



それは、必ずしも”成長”みたいなこととは限らず、量子のように「飛び飛びの値をとる」ことがあるのです。


弱虫が、突如勇者に”変身”してしまう…みたいなことが…



そして、改めて繰り返しますが、このように”自由”で、”可能性”に拓かれているのは…


「一切が”空”」であるから…すべてが相対的で不確定で、”あいまい”だからなのです…




さて、そこでここからが”きょうのお話”なのですが…


「この世に、”絶対に確実なもの”はあるのだろうか。あるとすれば、それは何だろうか」


…と考えた人がいました…


そのひとりが、デカルトで、彼は一度一切の”存在”を疑ってみました…



すると、どこにも”絶対に確実なもの”がみつからなかったのです。


そうすると”善”だの”美”だの”正義”だのと言っても、全部あやふやで、相対的で、確実なものと言えず、”善”が”善”であることの根拠、”正義”が”正義”であることの根拠もなかったのです。



さて、そうなるといかなる学問を学び、信仰を進めても”確実”なものがなく、確かな知識や確かな信心に到達することはできないわけです。



彼は、途方にくれました…



ところが…です…彼はふと気づくのです…



この世に確かなものは何もないけれども、こうやって考え続けている自分の存在自体は、疑いようがないではないか…と…


デカルトが辿りついた唯一の”確かなもの”…


それは、「自分が思考するかぎり、自分が存在していることは疑いようがない」ということでした。



これを「”近代的自我”の発見」などと言うのですがね…


そして、この自我の自覚が、個人主義の原点なんですがね…



これって仏教でいう”自燈明”のことですよ…な~にが”発見”なんだか…



弟子がブッダに問いました…


「師がいなくなったら、私たちはどうすればよいのでしょう?(ちゃんとやっていけるでしょうか?)」


「法を頼りとし、自分を頼りとせよ。他を頼ってはならぬ…」



真っ暗闇で頼りとするのは、「法」と「自分」のふたつの”灯り”のみ…


川で溺れて流されたときに、避難する小島は「法」と「自分」のふたつのみ…



デカルトは自分の存在のみが疑いようのないことだとして、これを「哲学の第一原理」と定めたわけですが、ブッダもまた「自分」を判断の基点とするように説いていたわけです。


デカルトもブッダも、「この世に確実なものは、なにひとつない」ということを知っており…


したがって、人間は本当の意味で「知る」ことはできないということを知っていたわけです。



最後に”頼り”になるのは、自分自身であって、”神様”とかではない…


もっとも、この”神様”が、神話イメージではなく、法である場合は、”頼るべきもの”になります。



それは、北極星や海図のようなもので、「拝んでいれば助けてくれる」類のものとは別のものです。



しかし、外道や邪教の徒にとって、”神様”というのは超能力を持ったヒーローのような者でなければならないようで、取り入って拝んで、媚び諂えば、「ありがたい」ものを授けてくれることを期待するのです。


そういう”甘っちょろい”信仰が報われることなどなく…「神も仏もない」現実にぶつかって…


「神様なんていない!…いるなら、なんで救ってくれなかった?!」などと駄々をこねるのです…



甘ったれてんじゃねえ!…って思いますがね~



すでに何度か書いてきたことですが、神仏を信じない外道ばかりなんですから、「神も仏もない」世界になって”当たり前”でしょう?と…


信じてもいない者を神仏は救うことなどできません。



第一、人々を地獄に突き落としているのは人間どもであって、神仏ではありません。


だから、こう言うべきでしょう?



「この世に人間がどこにいる?どこにもいやしない。


いまいるのはニセの人間だ。こんなやつらを私は一切信じない」と…



それがなんで…


「神様などいない。神様など信じない」になるんでしょうね?



なんで人間でもないやつらを”人間”と認めて、「信じる」のですかね?


この志々雄の言うように…ちと”覚悟が足りない”ってやつなのか…


それとも…


仏性のカケラもない”修羅”か…


あるいは、修羅をなら”信じられる”とでもいうのでしょうか…