「民主主義」というと、「人民が主人公」などと考えているのが”一般人”だろう…
ひどいのになると…「人民が神様」みたいに思っている…
だから、ずいぶんとずうずうしい「要求実現」を叫んで「人民の味方」ズラしているのが、ときどきいるわけである…
竹原信一氏が普通に選挙運動をして、市議に選出されたそうだが、この国のシステムとして、選挙運動はせざるをえないものになっていると気づいてのことだったとか…
そう…システムからして人民主権にはなっていないのが日本のシステムである…
選挙のときは、「人民は神様です」みたいな”ノリ”なのである。
まるで”セールス”…
えせキリスト教も、「伝道」とか言っているが、やっていることは”セールス”である。
”セールス”だから、”宣伝”などの”マーケティング”が必要となるのである。
だが、政治もキリスト教も”セールス”などでは断じてない…
”セールス”には、”サービス”が”付き物”だ…クーポンとかタダ券とかだ…
いろんな”政策”や”福祉”制度を日本人のサルどもは、そうしたクーポンやタダ券と同等に考えている。
”医療費無料”と聞けば、「タダで医者にかかれる」と考える…
”生活保護”といえば、「タダでおカネがもらえる」と考える…
「カネを払わなくていい」「何も負担を追いたくはない」…
そうした精神が根底にある…
それが”不法投棄”や”犬のクソの不始末”やのわがまま行為を引き起こす…
そんなわがままな人民が、医療制度や生活保護制度を担うだろうかと考えれば、到底ムリだとわかる。
人民に媚び、「フリー(=タダ)」思想に訴えて、人民主権の福祉国家が続くわけがないのだ。
巷の”陰謀論”も、昔ながらの”革命”思想も、どこかに”悪いやつ”がいて、善良な人民をダマクラかして私腹を肥やしているので、みんなで団結してやっつけましょう…ってな感じになっている…
だが、人民は”善”なのか?…
人民は”味方”か?…”敵”ではないのか?…
バカが9割、外道が9割の日本人に”救い”などあってよいのだろうか?…
当ブログは、日本人に対する死刑判決文でもあると言ってきているとおり、「日本人であること」には何の価値も認めてはいない。むしろ、歴史的に負うてきた罪業の深さを思い知るべきだと言ってきた。
自らの手で、自分のなかの”薄汚い愚劣な日本人”を処刑しなければ、新天地が拓かれることなど、夢のまた夢…まず、その”死刑”を執行せよ…すべてを捨てよ…
「善良な日本人の皆さん、団結して、ぼくたちの日本を取り戻しましょう」…ってか?…
そういう感じの言い回し、宣伝文句には背筋が泡立つ嫌悪を覚える…
ちゃらちゃらした”希望”などクソ喰らえだ!…
理想の実現は、現実の直視から始まる…
現実を直視すれば、そこには”絶望”しかない…
”絶望”しない人間は、現実を直視していない…現実を直視しないから、理想も実現しない…
なにやら気分だけは「自由」だの「民主主義」だの浸らせてくれるが、けっきょくは嘘っぱちである。
そもそも一般大衆には”理想”などはない。
あるのは、欲望や幻想、妄想である…
「ぼくらの民主主義」などと言ったところで、その「ぼくら」は理想を持たず、その選択を決してしないのだ。
「民主主義」になれば、大衆は”しあわせ”になるのだろうか…
「自由主義」になれば、大衆は”しあわせ”になるのだろうか…
「民主主義」を「人民は神様」、「自由主義」を「なんでもタダ(=フリー)」と考えているがごときの人々に”理想”が実現できるだろうか?
もういちど言う…そもそも人民は、”理想”を求めてなどいない…
この世は、「悪人が善人を支配している」のではない…
悪人が悪人を支配しているのだ…
悪魔が悪魔を支配している…
悪魔の世界というものが語られているらしいが、まったく人間社会そのものである…
その悪魔連中が、悪魔狩りや魔女狩りをする…
悪い政治家や悪い役人、悪い企業家を探して、これを叩く…
いや…批判は大事なのだがね…そして、ときには”裁き”も必要なのだが…
だが、一般大衆のレベルでは、悪者さがしをして、”裁き”にかけて、憂さを晴らして”終わり”である…
テレビを通して、悪魔狩りや魔女狩りにうつつを抜かしているだけだ…
人民は、いったいいつまでサルのまま、ブタのままでいるつもりだろう…
「特権階級」と呼ばれる…むかし「貴族」と呼ばれた圧倒的な金持ち一族は、いまも土地やビジネスや組織を所有し、日々陰謀を巡らせ、権力闘争に明け暮れている…
そのなかで”人民”というのは、踏みにじられるか、利用されるかだけの存在であった…
また、人民の力が大きくなれば、逆に外敵に狙われたり、統率が乱れたりするので、中央集権制が進んでいく…ローマが共和制から帝政へ移ったのも、フランスが革命後にナポレオンの帝政に移ったのも…中国で始皇帝の統一中国ができたのも、共通した力学がはたらいているようにみえる…
踏みにじられず、利用もされず、それでいて混乱するわけでもない…
そのような賢明な人民というのは、育たないものなのだろうか…
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さて…”社会福祉”と”施し”は、混同してはいけませんね…
貧民にむやみに”施す”というのは、むやみにノラ猫にエサをやるのといっしょで無責任なことです…
自分たちは、”いいこと”をしているつもりなんでしょうが…さて…
もちろん、貴族連中の抗争やビジネスで仕事を失って落ちぶれるなんてケースもあるのですが…
もちろん、現行のグローバリズムは、食えなくなる人間をわざと作り出しているので、逆に”施し”だろうとなんだろうと、やる必要があると思います。…が、人民がそこらをわかっていないような…
大貴族は、人民を踏みつけるものです。自分たちに刃向かったり、取って代わることがないように…
ところが、新鋭の勢力はむしろ人民の力を取り込んでのし上がっていきます…
それが、メディチであり、ボルジアであった…片や銀行業、片や貿易で財をなし、教皇領のなかにおいても、一大勢力を築くまでになった…
しかし、人民というのは”善人”の集まりというわけではない…
悪なる人民を抑えるために、貴族はその力を容赦なく、非情にふるわざるをえなくなる…
猿回し師が、サルを扱えないのと同じですからね…
戦後の民主主義は、大衆の愚劣や下劣まで”賛美”していた印象があります…
それも”セールス”だったからでしょう…
ブタのまま、サルのままの人民は、理屈を言わない(言えない)から統治しやすいのです…
しかし、それでも人民というのは気楽なものかもしれません…
権力闘争真っ只中の貴族たちは常に戦場に身を起きているようなもの…
多くの護衛で身辺を固められて、「おれは囚人か?」と思わず愚痴をこぼすチェーザレの心情…
一方、チェーザレような主君を護衛する側のミゲルの苦労も相当なものでしょう…
ミゲルは、チェーザレの死後、囚われの身でいたところをマキャベリに認められ、フィレンツエ軍編成の任に就き、ピサ奪還の快挙を果たすのですが…
まあ、なんとギリギリな…貴族たちの人生…”もてる者”たちとて、安らかな日々は貴重なもののようです。