張芸指揮上海フィルハーモニー管弦楽団 ブルックナー交響曲第5番 | 上海鑑賞日記(主にクラシック)

上海鑑賞日記(主にクラシック)

上海生活の合間に聴いた音楽や見たスポーツなどの記録を残します。

日時:2020年6月20日19:30~

会場:上海交響楽団音楽庁コンサートホール

指揮:張亮

演奏:上海フィルハーモニー管弦楽団

曲目:

ブルックナー:交響曲第5番変ロ短調

 

 

感想:新型コロナウィルスが流行した影響で、上海でも人の集まるイベントの中止が続いていたが、今月になって、感染対策を取りながらの公演が再開された。

 私にとっては上海では162日ぶり、日本で聴いてから数えても134日ぶりのコンサート鑑賞となり、再開されたというその事実だけでも感慨深いものがあった。

 コロナ対策をとった演奏会というからには当然ソ―シャルディスタンス、つまり人と人の間の間隔を十分にとって鑑賞するということであり、通常の座席間隔ではなく、人と人の間隔を2席空けて座席が販売されている。

 つまり通常の3分の1だけしかチケットが売られていないわけで、オケにとっての収入としては痛いだろうが、こんな状況でも真っ先に駆けつけてくれる聴衆はそれだけ熱心な音楽ファンだとも言える。

 実はこの一週間前にも同じ楽団の公演があったのだが、あっという間に売り切れていた。

 

 詳しい事情は分からないが、この公演と同じ体制が取られていたとすると販売座席数が三百席そこそこであろうと想像され、しかもこういった長期休止明けなのだから関係者に多く配られ、一般販売はかなり少なかったのかと推測される。

 

 

 さて、今回の公演だが張芸さん指揮の上海フィルの演奏によるブルックナーの交響曲第5番を一曲だけのプログラムである。

 

 休止になる前の1月に最後に聞いたのがブルックナーの1番であり、結局ブルックナー繋がりで再開することに何かの因縁を感じる。

 

 今回の編成は通常の二管編成であり、この曲でよく使われる倍管編成ではない。

 

 さて第一楽章の指揮者の入り方は、やや軽めに音をスタートさせたが、なかなか丁寧にブルックナーの語法を踏襲してオケを鳴らせている。

 

 以前から何度も書いているが、このオケはブルックナーの交響曲に相性が良く、その語法をある程度会得しつつある印象で、それは前回の1番よりさらに良化している印象である。

 例えていうなら、以前はカタカナ的ドイツ語発音だったのだが、曲りなりにドイツ語に聴こえるようになって来たような進化であろうか?

 その象徴として、オーボエが懸命にブルックナー的語り口で謡おうと努力している姿が見えるのである。

 

 その隣のフルートがまだ謡いが足りずメロディが表面的な語り口に見えるのと比較すると対象的であった。

 

 また今回の演奏ではホルンセクションが秀逸であった。

 

 といっても首席セクションではなく、2番以降のいわゆる響きを補っている面々の演奏である。

 

 もちろん首席の男性奏者も卒なく演奏していたが、ブルックナー独特の雰囲気を支えていたのは後の列の3番4番の響きだった。

 これがひょっとするとこのオケの良化のポイントかもしれない。

 

 今回指揮者も、以前のようなメトロノーム的なリズム取りではなく、左手できちんとビブラート的に煽るなど、指揮法に進歩がみられた。

 客席も、今回は子供が少なかったり熱心なファンが煮詰まって集まっている様子で、マナーが整っている。

    (このプログラムだとライトな層では買わないだろうが)

 

  こりゃ、上海のオケもいい演奏が出来るようになったなと、第2楽章までは思っていた。

 

 ところがである。

 

 第3楽章では何故か突然テンポを上げて、切れで勝負するような演奏に切り替えた。

 

 前の楽章までの音の流れを無視してテンポだけを上げたものだから、各セクションが歌いきれず、テープを早回したような意味のないテンポになった。

 オケは短い尺の中にメロディを収めるのに精いっぱいで、バランスが取れていない。

 

 確かにこの楽章はスケルツォだし、指揮者が変化を付けたくてアップテンポしたのかもしれないが、これは無意味な色付けであり、2楽章の延長の中で十分良い演奏に出来たはずである。

 おかげで前半少々いい気分に浸っていたのにやや興ざめしてしまった。

 

 その後、第4楽章に入り、この楽章はアダージョなので、落ち着きを取り戻したが、前半の2楽章ほどの丁寧さはなく、演奏という整え方がやや荒かった。

 特にこの楽章の後半の第3主題と第1主題を組み合わせて各パートが次々に受け継ぐ部分は、フィナーレに向かう助走といった意味で、モーツァルトのジュピターに似て非常に気も位置の良い部分なのであるが、どうも指揮者にはその位置付けが見いだせていないように映った。

 むしろ楽員のほうがブルックナーの語法を楽しんでいるような印象で各パートの音は抑えられており、それをまとめる指揮者だけが分かっていないのではという雰囲気だったのである。

 

 結局フィナーレは目一杯の大音量を引き出しての盛大な締めとなった。

 演奏全体としても後味は悪くなかったが、第2楽章まで悪くできない出来だっただけに、最終楽章までその丁寧な音作りを続けて欲しかったというのが正直なところである。

 とはいえ、良化の足跡は確実に見えており、久しぶりに音楽に触れることが出来た喜びと、それがブルックーなであったことを噛みしめた演奏会になった。