とっくに上海には戻ってきているのだが、新型コロナウィルスの流行の影響で、密閉空間は危険だということで、コンサートの類はすべて中止になってしまい、2か月もコンサートに行けない日々が続いている。
この間、行こうと思っていたボストン交響楽団、ナショナル交響楽団、五嶋みどりさんのコンサートは全て中止となってしまった。
常にコンサート情報は気にしているが、4月上旬現在、まだ再開されるような状況にはなっていない。
このような場合、当然CDで音楽を聴くことになる。
不思議と回数を聴いているのが第九で、何種類もの版がスマートフォンに入っている。
私が気に入っているのはチェリビダッケ&ミュンヘンフィルの版なのだが、この版は第2楽章が秀逸で、木管群がしっかりと歌って高揚して気持ちいい。
この版に限らず、ベートーベンの交響曲はオーボエなど木管群の活躍が楽しく、木管群の動きに注目して聴くと、交響曲の違う姿が見えてくる。
まあコンサート会場でのライブでは、弦楽器群の音に埋もれがちなので木管群だけを聴き分けるのはなかなか至難の業だが、CD録音をヘッドフォンで聴くと、比較的拾いやすい。
第九ももちろんその例に漏れず、例えば第四楽章の、合唱の切り出し部分のバリトン独唱の後ろで(位置的には前?)、木管群が飾るメロディを追いかけると、第九の違う表情が見えてきて心地よいのである。
独唱者を飾る額縁のような音がそこにあるのである。
ただ指揮者によっては、色んな楽器が鳴っているのに、平気で大音量のなかに埋もれさせてしまっている演奏をする指揮者もいる。
作曲者からすれば意味があるからそこに音(音符)を置いているはずなのであり、こういう演奏はもったいない。
もちろんそれぞれの楽器の音は色んな役割を担うので、ほかの楽器が鳴らす旋律の響きを補うために音が置かれている場合もあるが、独立した旋律の場合は、それを埋もれさせるのは作曲者の意図に反するような気がしており、それらはきちんと聴こえるように聴かせるのが筋なのかなという気がする。
こうやって、聴きなれた曲の中からCDなど録音媒体を通して新しい旋律を探すのが目下の楽しみであり、コロナの状況は終息がまだ見えないが、次のコンサートの機会を楽しみに待っている。