KYOTOGRAPHIE 2023 | 沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

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駐車場に連なった観光バスから降りて来る

外国からの旅行者達と日本人の学生達。

それは見慣れた二条城の光景。

お掘の水面を一羽の鴨が

水を掻き分けながら横切って行く。


まるで、

世界的なパンデミックなど

悪い夢だったのではないかと思わされるような

古都の日常が回復している。

そして、

この世界遺産の中に

突如として

異空間を出現させる国際写真展もまた、

その本来の姿を取り戻していた。

 

二条城二の丸御殿、台所・御清所での開催は

KYOTOGRAPHIEの定番ではあるが、

今年の展示は

例年にも増してクオリティーが高く、

歴史的建造物と写真のコンビネーションを

決してルーティーンにしない

主催者のキュレーション力に

僕は心を揺さぶられた。

 

ファッション・フォトグラファー、

高木由利子さんの作品を、

建築家、田根剛さんの構成で観せる

『パラレル・ワールド』。


この展示は、

その名の通り、

異なる世界を並列、

或いは往来する事で、

KYOTOGRAPHIEの今年のテーマでもある

”BORDER”

とは何か?を

浮かび上がらせる試みである。



 

巨大なファブリックへのプリント、

壁面や床、

台座に

様々なサイスで、

掛けられ、

置かれ、

並べられた写真達と

暗闇の中で

平行して別々のリズムで投影される

パラレルなスライドが、

来場者を視覚のラビリンスへと誘い込む。

 

最先端のファッションと

世界各地の民族衣装を混ぜ合わせ、

二条城で現代写真を鑑賞するという

二重の対比は、

先端と伝統が共存する京都だからこそ、

その意味がより強調される。

 

トレンドが歴史の中に

アイデアのソースを求めて来た事は

今に始まった事ではない。

しかし、

比較ではなく、

両者の混在の中から浮かび上がるのは、

時間を超えて生き抜く普遍性の証明であり、

過去(作品)が

現在というレンズ(鑑賞)を

通過する事によって

網膜に映し出される

我々の未来(想像)でもある。

 

そのプロセスは、

アートの進化であり、

写真撮影の構造そのものと言えるだろう。

そして、

観る者は、

我々が目指すべき道は何処なのか?

守るべき物は何か?

を自問自答するに違いない。

 

常に革新が求められる

ハイ・ファッションと

名もなき人々が譲り受け、

時に修繕を余儀なくされる民族衣装、

個人の欲望と

共同体のアイデンティティー、

巨大資本と手作業、

先端のマテリアルと自然資源、

富裕層と貧困層、

デザインと機能性・・・。

気が付けば、

僕は幾重ものパラレルに巻き込まれ、

翻弄され、

幻惑され、

魅了されていた。

 

高木さん曰く、

彼女が

それらの矛盾の中で

撮影を継続出来たのは”愛”だと。

それは、

人間の着飾る行為への愛であり、

作る事への愛でもあり、

高木さんの服への、

更には服を纏う人たちへの

愛ではないだろうか?

 

勿論、

写真の鑑賞自体が素晴らしい体験であるが、

彼女の言葉にも是非触れて欲しい。

作品は、

観る者が自由に解釈すべきという意見もある。

それでも、

KYOTOGRAPHIEの解説

(キュレーター及び作家による)には、

作品の理解を深めるだけでなく、

自分が感じ取れなかった意図や背景を炙り出し、

まさに”視界を開く”為の

鍵となる言葉が散りばめられているからだ。



中でも深い皺が刻まれた女性が

非対称なイヤリングを付けたポートレートが、

僕にとってのハイライトとも言える

ボーダレスな作品であった。


ファッションを撮し続けて来た

高木さんにしかなし得ない

市井の人々の粋な着こなしへの憧憬は、

単なるアンチテーゼではない。

 

その審美眼によって選び抜かれた

時代と世代と国境を越境する

稀有なトリミングなのである。


写し出された人物像は

シビアなジャッジによる

厳選された個性ではあるものの、

一貫して彼らに注がれる暖かな眼差しは、

対象へのポジティヴな感情の表れである

と僕は捉えている。

 

KYOTOGRAPHIEが

11年目に突入し、

同じ主催者による

KYOTOPHONIEなる

ボーダレスな国際音楽際の始動で、

正直、

僕は同時平行開催を危惧していた。

しかし、

今回のKYOTOGRAPHIEを

この展示から見始めた僕は、

他会場への期待は

膨らむばかりであったし、

その懸念が全くを以って

愚かな事だったと確信している。


又、ビート・ボクサーのSHOW-GOから

マリのレジェンド、

サリフ・ケイタまでをも網羅した

KYOTOPHONIEのラインナップは、

高木由利子展の、

いや、

KYOTOGRAPHIEのコンセプトに

呼応しているではないか!

 

彼らは、

写真と音楽の境界を突破し、

不可能という限界をも

越えようとしている。

 

京都に移住して

何も成し遂げられなかった自分から見て、

その新展開と

この完成度は奇跡的としか言いようがない。

羨望と賞賛。

しかも、

彼らは

コロナ禍を乗り越えてサバイヴしたのだ。

 

果たして、

あの外国人観光客と修学旅行生達が、

KYOTOGRAPHIEを観に来たかどうかは

僕には判らない。

しかし、

二条城のポテンシャルを

最大限に引き出し、

京都に訪れるべき別の理由を生み出した

KYOTOGRAPHIEを

彼らが見過ごしたとしたら、

それ程勿体無い事はないと思う。


今やKYOTOGRAPHIEは、

単なる初夏の風物詩ではなく、

京都の魅力、

いや、

京都の文化的吸引力として

この街に定着している。