毎週日曜の朝に「NHK俳句」という番組が放映されています。これまでも時々見てはいたのですが、私も番組に合わせて、下手でも一句ずつ作ろうかと思うようになりました。できるだけ続けていこうと思います。

 

 今回の兼題は「桃」でした。この前、桃を食べたのはいつだったか、覚えていないくらい過去のことです。入院した時にお見舞いにもらったような記憶が微かにあるのですが、見かけによらず体の芯は強いようで、幸か不幸かその後長い間、入院するような大病には罹らずに生きて来られました。スーパーで一つ一つ大事に並べられている美味しそうな桃を見ると食べてみたいと思うのですが、特に病気でもないのにあんな高価な果物を食べていいのだろうか、と考え直してしまいます。こういう価値観も昭和の時代のものなのでしょうか。

 

 モンローのセピアのポスター桃を食む

(もんろーのせぴあのぽすたー ももをはむ)

 

 今回は、桃から簡単に連想されるものはできるだけ外して、凡句にならないようにといろいろ考えて、言葉を探して読んでみました。それがマリリン・モンローのポスターなのですが、今一度詠み返してみると、三回ぐらい捻れば誰かが同じような連想をしてもおかしくないのかなあ、とも思い、まだ捻りがたりないなあと悔やんでいます。

 これもまた、昭和の時代の話ですが、マリリン・モンローのポスターは雑誌や商店街の店先などで時々目にしていました。私の子供の頃は写真もテレビもカラーでしたので、白黒のセピア色のポスターの美しさを知ったのは、モンローのポスターがきっかけだったのかも知れません。カラー写真を白黒写真に変えてわざと古臭く見せる手法は以前からありました。でも、昔の白黒写真をカラーに変換するのは、そもそも撮られていない色の情報を追加しなければならないので、そんな魔法のようなことはできないだろうと思っていたのに、今では昔の写真やフィルムをカラー化してテレビでも放映されているのは驚きです。今に、当時の記憶や思い出もカラー化して現代に再生できてしまうのではないかとも思うのですが、あの時食べた桃の味も蘇るでしょうか。

 

 “桃”は木へんに“兆”と書きます。“兆”は大きな数の単位なので、木の枝に沢山の実が成る様を表しているのかなと考えましたが、そんなに沢山実が成るのならば、あんなに高い値がつく訳はなく、少なくとも蜜柑のほうがよっぽどお手頃な値段で食べることができます。“兆”は“予兆”とか”前兆”とか、未来を占うような意味の言葉に使われますので、古代は占いに使われた貴重な果物だったのかも、とも考えました。古事記にも桃が出て来ます。いずれにしても霊験あらたかな食べ物なので値段が高いのだろうという結論にしたのですが、調べてみると、漢字「桃」の成り立ちは会意兼形声文字で「木+ [音符:チョウ]兆 (二つに割れるさま)」から成り立っているとのこと。単に、発音が語源になっているとは意外でした。結局、美味しいものは高価なものと、素直に理解するのが幸運の第一歩のようです。

 

 

 毎週日曜の朝に「NHK俳句」という番組が放映されています。これまでも時々見てはいたのですが、私も番組に合わせて、下手でも一句ずつ作ろうかと思うようになりました。できるだけ続けていこうと思います。

 

 今回の兼題は「秋風」でした。立秋の頃に吹く風で、秋が来たことを知らせてくれます。今年は八月七日が立秋でしたが、夏の暑い盛りで、風が吹いても熱風で、夏風と呼んでもまだ蒸し暑さの表現が足りないくらいでした。新暦になったせいもあるでしょうし、プラス一か月しないと、昔の季節感と合いませんね。秋は五行説の金行にあたるので「金風」、また、秋の色が白にあたるので「白風」ともいわれます。

 

 ペンギンのまばたき一度秋の風

(ぺんぎんの まばたきいちど あきのかぜ)

 

 秋風は他の季節の風と比べると、秋の間でも、夏の終わりから冬の初めまでに様々に変化しながら吹いています。初秋は夏の暑さが残る風であり、その暑さが秋の爽やかさに変わって行き、更に冬に近づくと、心地良い涼しさの中に寒さの種が混じり始めて、気が付くと「秋風(あきかぜ)」が「秋風(しゅうふう)」になって、人の心にも何やら物憂いものが浮かんで来ます。

 冬に入るともっと寂しくなるので、秋風がまだ清々しいうちに楽しんでおこうと考え、昨年は久しぶりに水族館に行ってみました。水族館は、暑い夏のうちに涼を求めに行くところだと勝手に決めていたので、秋に行くのは初めてでした。今の水族館は昔とは違って、屋外ではなく建物の中が中心なので空調も完備されており、夏はもちろん秋でも十分快適に見て回れます。サメとかアシカとかラッコなど、その水族館を代表する人気者の生き物には人だかりができて、間近で見ることも難しいですが、ペンギンは昔から定番の人気を誇っていて、数も多く群れているので、お手軽に楽しめます。ペンギンって、もっと活発に動いて忙しないイメージを持っていたのですが、あまり動きもせず、プールの端にじっと立ったままのペンギンが多いようでした。これも秋のせいなのでしょうか。ペンギンは、ただ立っているだけかも知れませんが、人の目から見ると、動物のくせに二本足でしっかり立って、何やら遠くのほうを凝視しながら何か深く考えているように見えます。時折、吹き込んでくる秋風を羽毛に受けて、ペンギンは一体何を見て、何を感じ、何を考えているのか、その姿を見ているこちらのほうも同じ秋風の中で、思わず一緒に瞬きをしてしまいました。

 

 秋以外の季節では、春は「東風」、夏は「南風」、冬は「北風」というように風が季語になっています。では秋は“西風”かというとそうはなっていません。素人のわたしでも、“西”と“秋”のイメージはつながらないので、ここは無理があるのでしょうか。“秋”というか、“西風”だけが季語になっていないのが可愛そうに思われて来ます。でも、天の四方の方角を司る四神では、西は白虎が守っていますので、ここで“白”色が出て来て、秋の色が白にあたるというところに、繋がるものがあるのかも知れません。

 

 

 毎週日曜の朝に「NHK俳句」という番組が放映されています。これまでも時々見てはいたのですが、私も番組に合わせて、下手でも一句ずつ作ろうかと思うようになりました。できるだけ続けていこうと思います。

 

 今回の兼題は「西瓜」でした。“西瓜”→“スイカ割り”→“海水浴”のような連想で、夏の季語のそれも代表のような印象が強いですが、実はそれは思い込みであって、「西瓜」は秋の季語になります。夏よりも初秋の西瓜のほうが大きく育って熟れており、美味しいそうです。季語としては夏か秋か微妙なところがありますが、季節を置いておいて、西瓜は西瓜としてそこから連想した感動を詠めればいいなと思います。

 

 スイカ切る種やや多き誕生日

(すいかきる たねややおおき たんじょうび)

 

 わたしの肉親の中にも、西瓜の頃の誕生日の人が何人かいます。わたしの誕生日は残念ながら西瓜の時期ではないのですが、もしそうであったら、一度は西瓜をケーキ代わりにして誕生日を祝ってもらうのもいいなぁと思います。小学校の頃、お誕生日会とか言って、呼んだり呼ばれたりしていましたが、その時にケーキが出て来るのは珍しく、今ほどケーキが庶民的なお菓子ではなかった、つまり誕生日やクリスマスの時の年に一回か二回食べることのできる高級品の扱いでした。出て来ても、今のケーキのような大きくて豪華なものであることは稀でした。

 西瓜も今はそれなりの値段で、手軽に食べられるとは言い難いところがありますが、昔は周りに農家があって、できた自家製のものを時々もらって食べることがあったので、当時は西瓜のほうが食べ易いおやつでした。大きな西瓜を十字に切って4分の1し、更に切り分けると、底が丸みを帯びた三角形の西瓜が丸いお盆に沢山並ぶことになります。誕生日のケーキも6分の1とか8分の1に切り分けると、一つ一つが三角形のショートケーキのようになり、この辺りの見栄えが西瓜とケーキはよく似ているんだなぁと気付きました。

 違うのは、ケーキにはイチゴや砂糖菓子とかのトッピングが乗っていますが、西瓜にはありません。その代わり、黒い種が付いています。これが多いと、ちょっと食べるのが大変です。わたしは拘る性格なので、少なくとも見えている種は全て爪楊枝で取り去った後に、がぶっと一口食べるという流儀です。種は西瓜の切りかた次第で、並んだ状態で切り口に出て来ることもあります。こうなると、種を取り除くのが楽になるので、こういう細かなところの技術を持っている人は憧れます。今度、どの様に切ればよいのか調べてみようと思います。

 種のついている〇〇は美味しいなどと聞いたことがあるのですが、種が沢山付いている西瓜はどうなのでしょう。わたしの個人的な経験からすると、美味しいと思います。食べる前、懸命に種を取り除いたので、その効果で美味しいと思い込んでいるだけなのかも知れませんが、それもよいと思っています。年に一度ぐらいは黒い種を見つつ、楽天的に人生を考えたいものです。