毎月の事務所便りで事務所からの風景として近況を載せています。まだ月末ではないのですが、わが家の庭の秋の風景を紹介したいと思います。

 

薔薇(その75)

 

 

 621回目は、薔薇です。先月末に、今夏最後の薔薇を紹介しました。その後、連日の暑さで薔薇も元気がなくなったようで、暫くは葉っぱも萎びていました。このままだと秋の開花は難しいかなぁと、ほとんど諦めていたのですが、一つだけ小さな蕾が付きました。

 

 

 若干小振りですが、少しずつ開いて来ました。写真を撮ろうとしたら、丁度どこから飛んで来たのか綿帽子のような羽根が額のところに引っかかっていました。赤に白の羽根もなかなか鮮やかです。

 

 

 秋になって最初の開花なので、このまま元気に咲いてもらいたいと思います。

 

 

 毎週日曜の朝に「NHK俳句」という番組が放映されています。これまでも時々見てはいたのですが、私も番組に合わせて、下手でも一句ずつ作ろうかと思うようになりました。できるだけ続けていこうと思います。

 

 今回の兼題は「座る・坐す」でした。秋のこの時期に“座る・坐す”という動詞の言葉を選んで来たのは、ゆっくり座って物思いに耽るといった様子を思い浮かべているのでしょうか。考えてみると、ものを思うことだけに特化して時間を費やすことは殆ど無かったような気がします。子供の頃は明日友達と何をして遊ぶとか、学生の頃は宿題や課題の締め切りとか、働くようになったら予定の詰まったスケジュールややるべき仕事のToDoリストとか、人は誰でもそれ相応に忙しい人生を送っています。

 

 農夫座す入鹿の塚や秋の暮

(のうふざす いるかのつかや あきのくれ)

 

 以前、奈良に旅行した時、春日大社や興福寺、平城京跡などとともに、更に足を伸ばして明日香村まで巡りました。石舞台や高松塚古墳などを回って古代大和王朝へのロマンを愉しみながら、実は最も見てみたかったのは蘇我入鹿の首塚でした。蘇我入鹿と言えば、日本の歴史で最初に勉強する大化の改新(今は乙巳の変と教わるらしい)に登場する大人物です。それなのに、検索してみると、何も建築物もなく、周りは田んぼが占めているそんな中に、それほど高くもない石の塚が立っているだけという写真が出て来ます。半信半疑で行ってみると、写真のとおりの場所に、写真のままの首塚が立てられていました。学んだ歴史とのギャップを感じつつ記念に写真を撮ろうとすると、丁度田んぼで農作業をしている初老の農家のおじさんが入ってしまいます。躊躇していると、向こうからそれを察知し、自然な仕草でフレーム枠から外れて、一服するかのように首塚の隣のコンクリートに腰を降ろして写真を撮らせてくれました。他に観光客もおらず、車の走る音も聞こえて来ず、静かな秋の夕方でした。

 明日香の村もそうですが、奈良の地には秋の季節が最も似合うように思います。子規の「柿食へば...」の句が頭に浮かんで、柿 → 秋 という連想が刷り込まれているようです。事実、明日香村は家の庭や道端に当たり前のように柿の木が立っており、いつでも秋を感じさせる場所です。あの農家のおじさんは何を思いつつ、塚の側に腰掛けていたのでしょう。手慣れた仕草だったので、こういうことはよくあることなのでしょう。そして、入鹿はこの農夫をどの様に思っているのでしょう。どちらも目に入っているのは、秋の日の穏やかな夕暮の風景でしょうか。

 

 わたしの現在の生活で最も物思いに耽っている時間は、この俳句を考えている時かも知れません。ただし、じっと座って句を練るよりも、散歩をしている途中とか、湯舟に浸かっている時とかに急に浮かんで来る句のほうが自分なりに納得できるものであることが多いようです。人間は首から上だけではなく、手も足もついての人なので、全体のバランスが大切なのでしょうね。

 

 

 毎週日曜の朝に「NHK俳句」という番組が放映されています。これまでも時々見てはいたのですが、私も番組に合わせて、下手でも一句ずつ作ろうかと思うようになりました。できるだけ続けていこうと思います。

 

 今回の兼題は「花野」でした。秋の野の草花が咲き満ちている野原です。いつも散歩している公園はコスモスの花壇が広がっていて、今の時期になるとボランティアの人達でしょうか、色とりどりにコスモスを植えて行ってくれて、出来上がった公園は一遍に秋模様に変わります。ただ、季語の「花野」は人の手が入っていない自然の野原に秋の七草などが咲く、淋しさを少し思わせるような原っぱのことを意味するようなので、厳密にはこのコスモスの公園は「花野」ではないのかも知れません。

 

 花野暮れ神々の編むかんむり座

(はなのくれ かみがみのあむ かんむりざ)

 

 前回も星や星座を入れた句を詠みましたが、今回もその続編で星座が登場します。かんむり座は、うしかい座とヘルクレス座に挟まれた小さめの星座です。王冠のように星が並んでいるので、珍しく、名前のとおりに星を繋ぐことができます。最近はちょっと見方を変えて、女性が頭につけるティアラの形をしていると言ったほうがお洒落で、女性受けも良いようです。ティアラの正面から少しずれたところに明るい星があるので、それがティアラに付けられた宝石に見えます。

 そんなかんむり座ですが、今年はその中の一つが爆発するという予測がされています。オリオン座のベテルギウスとは違って、何時爆発するか分からないという訳ではなく、今年中には必ず爆発すると予測できている星です。わたしも夏前から観測しているのですが、未だに爆発せず、もう秋になってしまいました。爆発した星が見えるなら西の空で、太陽が沈んだ後のまだほの暗い時間になりそうです。丁度その方向にはコスモスの公園があり、かんむり座との共演が見られそうです。そう言えば、子供の頃、田んぼのれんげ草やしろつめ草を摘んで、輪っかの形に織ってかんむりを作って遊んだことがありました。あの時のかんむりとは大きさが比べられないほど違いますが、星座の神々に合ったサイズですから、花野もそれに負けないくらい広いものをいつか見に行きたいですね。

 

 うちの周りの住宅街は、最初と比べると随分と家が建ち並ぶようになりましたが、まだまだ空き地が残っています。放ったらかしで、自然のままの草花が茂っているのですが、秋の七草とは違って、背高泡立草をはじめ雑草だらけで、いくら自然のままと言ってもこれでは「花野」とは呼べない状態です。けれどもそこが整地されて新築の住宅が建てられ、新たな家族が引っ越してくれば、その時から夢も希望もある花野のように様変わりします。うちも数十年前にはそうだったのですが、今は家族も減ってしまい、冬がすぐそこに来ている晩秋のような花野です。