2023/09/24
朗読 ブッダの真理の言葉 写経
第1章 解釈編 ③「人間は死ぬ」
「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(巴:Dhammapada
)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム) で伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、パ ーリ語 で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia
我等はここにあって死ぬ筈の物である、
と覚悟をしよう。
この断りを他の人々は知っていない。
しかし、この断りを知る人々があれば、
争いは静まる。
子供の頃、
幼稚園の頃、
僕はお祈りをした。
その時通っていたキリスト教の幼稚園
「こひつじ幼稚園」のお祈りではない。
自分独自のお祈りだ。
自分独自の神様がいた。
でも、手の組み合わせ方は キリスト教の手の組み方だった。
お祈りを初めて習ったのが「こひつじ幼稚園」
といっても今調べたら、
指を交互に組み合わせるお祈りは、
スタンダードではないのか?
カソリック、プロテスタント、
あまり決まっていないような。
ベルイマンの「7つの封印」でも、
手印に拘りを感じなかった。
僕は、
僕の人生の終わる迄の間に、
人間が死ぬ事の無い何かが発見されます様に、
と毎晩祈っていた。
死ぬのが怖かった。
未だ生まれて数年の子供が、

このお祈りは毎晩、
眠る迄続けた。
そしてそのお祈りは、
交通事故迄続いたと記憶する。
人はこのようにして死ぬのだ。
実際に死にかかって、
初めて僕は死ぬ可能性を自覚した。
それからただひたすら、
臆病になった。
多分お祈りもこの時辞めた。
人間は確実に死ぬ物だと分かって、
自分の神様にお願いするのは辞めた。
不思議だ。
九死に一生を得たのは、
このお祈りのお陰だったかもしれないのに。
ここで仏様の言う「知る」とは、
覚悟を伴う「知る」なのか?
今の世の中で簡単に、
民族や国家のために人を殺す人は、
人は死なないと教えられている人達に違いない。
そうゆう教えの宗教を聞いた事がある。
そして見たところ、
その争いはいつまでも終わらない。
仏教は、ブッダ自身が明言する。
我等はここにあって死ぬ筈の物である、
と覚悟をしよう。
この断りを他の人々は知っていない。
しかし、この断りを知る人々があれば、
争いは静まる。
続けます。
この世の物を清らかな物であると
思い為して暮らし、
眼などの感覚を抑制せず、
食事の節度を知らず、
怠けて勤めないものは、
悪魔に打ちひしがれる。
これは正に僕だ。
この世の物を清らかな物であると、
思いなして暮らす
とは一見すると正しい行いと勘違いしそうな表現だが、
そうではない。
感覚を抑制せず
とはこの後よく出て来る表現だ。
続けます。
弱い樹木が風に倒される様に、
この世の物を不浄であると思い為して暮らし、
眼などの感覚をよく抑制し、
食事の節度を知り、
信念あり、勤め励む者は、
悪魔に打ちひしがれない
やはり何度考えても
僕の家内は悪魔であった。
今はどうか知らない。
でもあの時はそうだった。
正確に言えば彼女は、
悪魔に取り憑かれていた。
でもこれは彼女の悪口ではない。
彼女もその家族も敬虔な仏教徒である。
問題は底の見えない貧しさだ。
そして、そこに買春目的で現れた僕だ。
感覚を抑制しない僕だ。
そこに全てが狂う要素があったに違いない。
岩山が風に揺るがないように、
穢れた汚物を除いていないのに、
黄褐色の法衣を纏おうと欲するする人は、
自制心が無く、
真実も無いのであるから、
黄褐色の法衣に相応しくない。
この国は仏教の国だ。
ここの僧侶は皆
黄褐色の法衣
を着ている。
日本の僧侶より遥かに戒律に厳しい。
不思議でならないのはこの点だ。
僕は彼等を沈黙させるような、
僕は彼等を怒らせるような、
何をやらかしたのだろう?
教えてください。
合掌
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