2023/09/17

 

朗読 ブッダの真理の言葉 写経

第1章 解釈編 ②「影」

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

僕の周りにある全ての事象

 

☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️

物事は、

心に基づき、

心を主とし、

心によって作り出される。

もしも清らかな心で話したり、

行ったりするならば、

福楽はその人に付き従う。

影がその体から離れないように、

☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️

 

最近つくづく思う事が、この一節である。

そもそも僕の仏教信仰のキッカケは、

某国人の最初の家内がaidsを発症し、

死にかけていくのを見たからである。

実際は全て彼女の演技だったのだが、

それはトムハンクスも顔負けの名演であった。

 

トムハンクスの名演とは

「『フィラデルフィア』(Philadelphia)は、1993年アメリカ映画。エイズゲイにまつわる偏見を法廷で覆してゆく物語である。」Wikipedia

 

僕は某国赴任時、

あの映画と寸分違わぬ現実に生きていた。

でもトムハンクスと違うのは、

このことは周りには内緒で、

実際ウィルスを持ち込んだのは家内自身だった。

家内はあれだけ吐いてもなお痩せ細って行かなかった。

僕は不明の未来に狼狽えただひたすら仏教に縋った。

 

僕は宗教にはどちらかと言うと無縁で、

父親は日教組の末席だったし、

母は真言宗と浄土真宗を勘違いしている人で、

僕はと言えば、

子供の頃、交通事故で死にかけたとき行っていた幼稚園は、「こひつじ幼稚園」と言うキリスト教の幼稚園だったが、キリスト教信仰はそこから進まず、

困った事があれば東伏見稲荷にお願いに行く位で、

大人になるまで秋田の田舎でお墓参りをする位で、

僕は宗教に無縁だった。

僕は仏教信仰に無縁だった。

 

某国では、家内も含め、

ここの国民は仏教信仰に熱心で、

僕もあの彼女のaidsの症状を見れば、

当然仏様に縋りつく事になる流れだったのかも知れない。

でも、某国に居た25年近く、

僕は仏教を完全に勘違いしていた。

仏教とは困った時に縋る宗教。

そう思っていた。

仏教とは死んだ時にお世話になる宗教。

そう思っていた。

 

不治の病と言われたaidsも、カクテル療法が開発されて、家内のaidsの症状が緩和され、残ったのは月6万円超の薬💊だが、それが僕の仏教信仰の始まりとなった。

毎日ワットロンポーソートンと言うお寺で手に入れた仏像に拝み、

毎月、朝早くそのお寺に通った。

鶏卵を数百個茹でて仏前に供えた。

カクテル療法はその成果だと思っていた。

 

カクテル療法

「カクテル療法(カクテルりょうほう)とは、複数の薬を各人の症状・体質に合わせて組み合わせて投与し、症状を抑える治療法。別名多剤併用療法とも呼ばれている。後天性免疫不全症候群 (AIDS) の治療などで知られている。2021年には、2019新型コロナウイルス感染症に対する治療薬として、2種類のモノクローナル抗を同時に投与することで治療効果を高める抗体カクテル療法[1]が登場し、カシリビマブ・イムデビマブバムラニビマブ・エテセビマブが実用化されている。」Wikipedia

 

あの家内のaids症状が全て嘘だったと知った時、

あの某国での出来事が全て嘘だったと知った時、

おは打ち枯らして日本に帰った僕が始めたのは呪術だった。

それが僕の復讐劇の始まりであり終わりだった。

 

インターネットで、

塩まじないを皮切りに、

藁人形、

写真を切り裂き、

名前を燃やし、

ありとあらゆる呪術を勉強し、

結局、辿りついたのが仏教だった。

大乗仏教だった。

 

でも最初のうち、

懲りない僕は仏教にすら呪いを求めた。

手印、

真言、

陀羅尼、

これらを呪術と勘違いして、

勉強を深め、

ふと気づくとそれは

呪術行為ではない事に気がついた。

 

そうして、

最初は真言宗の孔雀明王、

次に真言宗雨法院の住職に縋り、

勤行を頂いて、

仏様と聖天様に祈る様になったものである。

 

だが、

いくら縋っても僕は、

生活を律する事をしなかった。

勤行すれば救われると思っていた。

食生活を変える事はしなかった。

 

そして信仰して僅か半年程で僕は脳梗塞で倒れた。

そして、2週間も放置されて死ぬ所だったが生かされた。

 

僕は病院でリハビリの痛みに耐えながら思った。

仏教と言う宗教は縋る宗教ではない、と。

仏教と言う宗教は仏様と一緒に営む宗教だ、と。

 

今まで述べた僕の仏教信仰の歴史を見れば分かる。

仏教は仏教として何ら変わっていない。

僕が勝手にどんどん変わっているのだ。

そうして、今此処にいる。

遅ればせながら僕は、

自分の前頭葉に涼風を得て、

僕のすべき事が見えて来た。

そして以下の行。

 

☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️

彼は我を罵った、

彼は我を害した、

彼は我に打ち勝った。

彼は我から強奪した。

と言う思いを抱く人には、

恨みは終に止む事がない。

 

彼は我を罵った。

彼は我を害した。

彼は我に打ち勝った。

彼は我から強奪した。

と言う思いを抱かない人には、

終に恨みが止む。

 

実にこの世に於いては

恨みに報うるに、

恨みを持ってしたならば、

終に恨みの止む事がない

恨みを捨ててこそ止む。

 

これは永遠の真理である。

☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️☸️

 

此処にいたり、

仏様とはどこにいらっしゃるかを知り、

身体が震えて止まらなかった。

 

合掌

 

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