今朝は、きちんと走ったが、遠くの山が見えね~ほど霞んでいた・・・。
うちのベランダから、南方向を見ると、近くは八幡市の男山、遠くは奈良の生駒山、が見えるのだが、今朝は霞んで見えなかった・・・。
中国の黄砂のせいのようだが、これも春の行事のひとつとも言えるのだが、ちょっとイヤかも・・・(-_-;)
さて、昨日のS社でのことやけど、むりくり取ったU9のアトの会社がどうなってるのか、ちょっと緊張しながらS社に向かった。
着いてみると、割と普通で、予想よりもだいぶ整理整頓されていた・・・。
予想では、作業台の上に、商品が溢れてる光景を覚悟してたのだが・・・。
ゆ~こりん姉さんに聞くと「昨日、S社長が仕事を処理してくれた」らしく、ゆ~こりん姉さんも、かなり頑張ってくれたようだった。
って~わけで、U9明けの昨日は余裕で一日の仕事を終えた・・・。
勿論一時間ほど残業したけど、それぐらいで済んで御の字であった・・・。
ありがたや、ありがたや・・・・・・・である^^;
さて、先日の朝ランで、採集した照円寺(油小路通り御池上る)さんの、今月のブツのお言葉が↓これである。
右側の一般大衆向けの「お言葉」は、あい変らずだが、このお寺の「伝道掲示板」で注目すべきは、左側の「真面目な」ブツのお言葉の方なのである・・・。
今月は、「歎異抄」からのお言葉のようだが、ネットで調べたらこの言葉は、歎異抄の後序の中のお言葉で、意味は・・・。
阿弥陀如来が長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いは、それはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。
「煩悩具足」「罪悪深重の身」を生きるほかないこのわたしを何としても助けようと決意していただいたことは、なんともったいなく、有難いことであろうか
このブツのお言葉の中で、どうしても気になるのは「親鸞一人がためなりけり」の部分やろう・・・。
何故なら、単純に聞くと、とても利己的な言葉に聞こえるから、思わず「え?」と思ってしまうからね~・・・。
でも、よくよく考えたら、宗教や信心って~ものは、極めて個人的な心理現象やから、別に、当たり前のことなんやろ~と、分かる。
仏教であれば、「仏対自分」という心の操作を経て「自分とは何か」・・・を探求する行為、なのかも知れない。
道元禅師が、あの有名な「仏道をならうは自己をならうなり」と言われたのも、そういう意味からだと思ふ・・・。
だから、親鸞聖人がおっしゃるように、人が仏(神)に向き合う時、仏は自分一人の為にそこに現出され、その対話の中で、仏を鏡として、自分の本当の姿を知ることとなる・・・。
だから、誰にとっても、仏は自分一人の為にある・・・と言えるのだと思ふ・・。
だから、それは決して「利己的」な事ではなく、宗教の本質とは、そういうものなのだろう・・・と思ふのである。
って~ことで、今月も照円寺さんの「ブツのお言葉」はなかなか深いお言葉だったと思ったのあった・・・。
さて、それとは別に、「去年の今日」書いた記事を読み返してみたら、めっちゃ面白かったので、下に貼り付けておくので、よろしければ、読んでやってくだせ~・・・d(^O^)b
「酒なくて」について、わしも考えた・・・^^;
先日の東福寺法話会のレジメに載ってた「酒なくて 何の己が 桜かな」の川柳についてである・・・d(^O^)b
この句は江戸時代の作者不詳の川柳らしのだが、一般には「酒がないと、きれいな桜も興ざめである。やはり花見には酒がつきもの」って~酒飲みの心情を表現したものとされている・・・。
その通りなのだろうが、わざわざ法話会のレジメに取り上げられたのは何故だろう・・・って~ことに、心が惹かれたのである。
残念ながら、和尚さんは時間の関係で、この句に触れなかったのだが、自分なりにいろいろ考えてみた・・・。
まずは、上に挙げた句の解釈なら「酒なくて 楽しみ薄し 花見かな」みて~な句の方がストレートではないか・・・^^;
僕が気になったのは「何の己が」って~言い回しで、これは「なんで、てめ~が○○なんだ?」って~意味だとすれば、この句では・・・。
「なんで、てめ~が桜と名乗れるのだ」って~言い回しにとれね~だろうか・・・。
とすれば、句全体としては「酒がないのに、どうして、てめ~が(自分の事を)桜って~ほざけるんや?」って~意味にならね~か?
そこで思いついたのが「酒」とは「世俗にまみれた煩悩意識」のことではないか・・・って~思ったのである。
煩悩まみれの主体、つまり我々にとっては、花を桜だと名付け、判断し分別するのが普通である。
ところが、酒を飲んでない(酔ってない)覚醒した(悟った)意識主体が花をみても、無分別であるから、花は花であり、自分も花でるから「桜」であると、いちいち分別しない。
って~解釈できね~だろうか・・・。
そう「この花はわたしです」・・・ってなもんや^^;
とすれば「覚醒した意識(酒に酔ってない)から観れば、花は花であり、あるがままの花は、自分が桜である、って~ことも主張しない」って~意味なのかもな~・・・って~思ったのだ。
逆説的に言えば、「酔っ払ってるからこそ(世俗の煩悩にまみれた目がでみてるからこそ)桜を桜をとして判断し、いっそ美しく見えるのである」って~ことかな~・・・。
ところで、この句「酒なくて」を「咲かなくて」と置き換えても、意味は通じる句である・・・・
咲かなくて 何の己が 桜かな・・・ってね^^;
さらにさらにさらに、この句、応用すれば、いっそ楽しくなる句でもある。
酒なくて 何のおのれが ホトトギス
酒なくて 何のおのれが 名月や
酒なくて 何のおのれが 雪見かな
とかね・・・^^;
あ~たも「酒なくて」で何か、一句どうですか?^^;
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