「酒なくて」についてわしも考えた・・・d(^O^)b | しゅ~る之助の新々観察ラン日記

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「下京のジョージ・クルーニー」を自称する、坐禅と観察ランで、                                        京都の街をしぶとく生き抜くおじさんの日記です。

先日の灌仏会(花祭り)の時、お寺で配られたサクマドロップス

 

 

今朝は、何となく体のだるさを感じて、休足にした・・・(-_-;)

 

何しろ、今月もラン貯金長者様なので、こんな時は休足したらえ~のであるd(^O^)b

 

昨日のお寺バイト、天気は持ち直したものの、ちょっと肌寒い一日だった・・・。

 

桜が散って、次の賑わいのピークはゴールデンウィークなので、それまでは結構ヒマヒマになる・・・。

 

そんな中、昨日一人の西洋人の若い娘が一人で、窓口に現れた。

 

けばい化粧に鼻ピアス、って~今時のかっこの娘だったが、にこにこして、愛想はめちゃくちゃよかったな~・・・。

 

その娘が館内に入って、しばらくして出てきて、ショップでいろいろ品定めをしていたのだが、その子が手にしてレジに持ってきたグッズが意外だった・・・。

 

お寺の法話集を英訳した本だったのだ・・・。

 

なんで、こんな本を読みたいのか、聞いてみて~ところであるが、何度も書いたように、こちらにはそんな英語力はない・・・。

 

なまじっか突っ込むと、おかしな展開になるおそれもあり、事務的にさっさと清算処理をして、「サンキュウ」とか言いながらレシートを渡した・・・。

 

その子はにこにこしながら、出て行ったのだが、しみじみと思ったのは・・・「人は見かけによらね~な~」って~ことだった。

 

彼女にどんな悩みがあるのか知れね~が、顔つきはべっぴんさんだったので、出来れば「鼻ピアス」は止めた方がえ~かな~・・・と思った。

 

余計なお世話やけど・・・^^;

 

さて、前フリはこの辺りにして、先日の東福寺法話会のレジメに載ってた「酒なくて 何の己が 桜かな」の川柳についてである・・・d(^O^)b

 

 

この句は江戸時代の作者不詳の川柳らしのだが、一般には「酒がないと、きれいな桜も興ざめである。やはり花見には酒がつきもの」って~酒飲みの心情を表現したものとされている・・・。

 

その通りなのだろうが、わざわざ法話会のレジメに取り上げられたのは何故だろう・・・って~ことに、心が惹かれたのである。

 

残念ながら、和尚さんは時間の関係で、この句に触れなかったのだが、自分なりにいろいろ考えてみた・・・。

 

まずは、上に挙げた句の解釈なら「酒なくて 楽しみ薄し 花見かな」みて~な句の方がストレートではないか・・・^^;

 

僕が気になったのは「何の己が」って~言い回しで、これは「なんで、てめ~が○○なんだ?」って~意味だとすれば、この句では・・・。

 

「なんで、てめ~が桜と名乗れるのだ」って~言い回しにとれね~だろうか・・・。

 

とすれば、句全体としては「酒がないのに、どうして、てめ~が(自分の事を)桜って~ほざけるんや?」って~意味にならね~か?

 

そこで思いついたのが「酒」とは「世俗にまみれた煩悩意識」のことではないか・・・って~思ったのである。

 

煩悩まみれの主体、つまり我々にとっては、花を桜だと名付け、判断し分別するのが普通である。

 

ところが、酒を飲んでない(酔ってない)覚醒した(悟った)意識主体が花をみても、無分別であるから、花は花であり、自分も花でるから「桜」であると、いちいち分別しない。

 

って~解釈できね~だろうか・・・。

 

そう「この花はわたしです」・・・ってなもんや^^;

 

とすれば「覚醒した意識(酒に酔ってない)から観れば、花は花であり、あるがままの花は、自分が桜である、って~ことも主張しない」って~意味なのかもな~・・・って~思ったのだ。

 

逆説的に言えば、「酔っ払ってるからこそ(世俗の煩悩にまみれた目がでみてるからこそ)桜を桜をとして判断し、いっそ美しく見えるのである」って~ことかな~・・・。

 

ところで、この句「酒なくて」を「咲かなくて」と置き換えても、意味は通じる句である・・・・

 

咲かなくて 何の己が 桜かな・・・ってね^^;

 

さらにさらにさらに、この句、応用すれば、いっそ楽しくなる句でもある。

 

酒なくて 何のおのれが ホトトギス

酒なくて 何のおのれが 名月や

酒なくて 何のおのれが 雪見かな

 

とかね・・・^^;

 

あ~たも「酒なくて」で何か、一句どうですか?^^;

 

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