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教育に力を入れるママたちの様子が、ときおりテレビで流れる。子どもに頼まれた洋服を買いに、バーゲン会場で駆けずり回るパパたちの姿も、ときおり放送される。これが日本人である。

暇だなあと思う。

熱心に勉強を教えるママは子どもの成績に一喜一憂して大騒ぎだ。そんなに勉強が大事だと思うのなら、自分でやればいいと思うのはわたしだけだろうか。子どもにかまけて自分そっちのけの親は、子どもにとっては窮屈そうだ。

売り場に駆け込んで、子どものための洋服をあさる。これは愛情なのか。子どもには危ないからと行かせないのか、売り場にはいい大人ばかり群がっていた。

本来、教育って「子どもが自分ひとりで生きていく力を身に付けさせること」だろう。

それなのに、子どものためと言いながら、全部お膳立てしてやる親はほんとうに多いのだ。

基本的なしつけは、テキストを読んで覚えさせてみたところで、なぜだか不自然さが際立つ。それは親にしつけがないからだ。

子どもの所作を完璧にさせても、親のだらしなさが垣間見えたりすると、すぐににせものだとばれてしまう。

しつけは他人に迷惑をかけないようにするマナーである。思いやりの心である。それは生育環境によるところがかなり大きいと思う。いくらいい学校を出ても、気遣いと思いやりがなければ生きてはいけない。

気遣いと思いやりは感受性の強さで決まるから、鈍感な人間はなかなかマナーを習得できない。

そういうことをなぜもっと教えないんだ。

無知な親の子どもはやっぱり無知だ。今もっとも勉強が必要なのは大人のほうだ。

格差がひろがるのも当然だと思う。勉強する人間が上にいくのは当然だし、勉強をしない人間には生きる力がないからとめどなく下に落ちていく。

「自分は少なくとも中流」と思っているひとたちの、現実のクレバスに落ちていく数はどれくらいだろう。

そこから努力して這い上がるのか、漫然と過ごして気づいたらどん底にいるのかは、はっきり言って政治とか景気のせいじゃない。


愛を語るひとはたくさんいるけれど、愛の意味を理解しているひとは少ないと思う。

愛とは・・・。

自分の身を、相手に差し出すことである。喜びをもって。見返りを求めず。

だけどそれを実践することは難しい。難しいどころか、自分が「これが愛だ」と思っているものは、往々にしてまったく違っていたりする。

たとえば親子の愛。これで悩んでいるひとは結構いるんじゃないかな。自分の親だから、自分を愛さないはずはない、と、思い込みたがるらしい。だけど心の中では「なにかおかしいんじゃないかな」と時々考える。

まず、それは愛じゃないと気づき、認めること。残念ながら親に愛を注いでもらえていない、とね。だけど、自分をこの世に生み出してくれたこと、今まで生きてこれたことに親も関わってくれたことは素直に感謝するのがいいと思う。

この頃は虐待だとか、親子で殺人が起きたりして、世間は大騒ぎだけど、騒ぐほどのことじゃない。それだけフラストレーションがたまる世の中だってことだし、誰の心のなかにも、殺意が芽生える可能性はある。それを、なにか汚らわしいもの、自分には関係のないものとして見てるから騒ぎたててしまう。

今は、ひとの悲しみや苦しみを、正面から受け止めてあげようとする人間が少ないんじゃないかな。

虐待の起こる家庭しかり。家庭のなかでまで「しらんふり」を決め込んで、いざというとき家族がサポートしてくれるとでも思ってるのか。

熟年離婚というのもこれからどんどん増える。もっと愛を持とうよ。

妻が女に見えないから、触るのも気が進まないなら、妻は一体何なのか。

旦那は妻がいないとなんにもできないっていうなら、できるようにしなかった妻にも責任があるんじゃないのか。

愛の本当の意味って、「相手のためを思うこと」なんだ。自分の身を切って、相手のためなら谷底へも突き落とすのが愛なんだ。

だからその辺の安っぽいラブソングに愛が語れるはずはないんだ。愛はそんなに生温いものじゃない。

そんなうす枯れたような世代に育てられた人間がいま親になって、子供に愛を注げないのは当たり前のこと。虐待も不思議なことではないんだ。

もっと全世界のひとよ、心に愛を満たして。もったいながらずにさ。



先日、知人と飲みに行った席で、こんな話がでた。

「最近報道されるニュースが、とても自分の国で起きていることとは思えない、思いたくない。どっか他のセカイの出来事のようだ」。

そう、これは現実に起こっている出来事・・・。たしかにテレビを通して見ると恐ろしいような事件が、実際に自分の生きている世界で起こっているのだ。

いま、この瞬間にも自分とおんなじ「人間」が、売られたり、殺されたり、虐待されたり拷問されたり飢えてたり病んでたり、そして死んだりしてる。

自分の身に降りかからないことを「他人事」と見なすなら、現実に自分が悪夢に突き落とされたとき、他の人にも自分の苦しみを他人事として見なされることだろう。

自ら体験できることは非常に限られている、それを補うのは想像力だと思う。世界中の人間が自分の周りしか見えない、「精神的な近視」になってしまったら、貪欲に幸せを求めているひとから不幸になっていくだろう。自分と、自分の家族だけの幸せを得ようとするなら、同じことを考えている人間のなかでもみくちゃにされて潰されてしまう。

自分が幸せになりたいのなら、相手をどう幸せにするか考えるべきだろう。自分が人間である以上、ほんとうの幸せは人間からしかもたらされないもの。相手の、「心からの笑顔」を引き出せたとき、いちばん幸せを感じているのはきっと自分だ。血相を変えて奪い合う社会より、笑顔で与える社会。それはある日突然に現れるわけではない。一人ひとりの努力が必要なんだ。何もしないでただ憂えているのは間違ってる。変えようとしない人間が幸せになれる社会なんてこの世にもあの世にもない。