以前、洗足池にある勝海舟のお墓に行ったことがあります。私は子母沢寛著『勝海舟』を読破し、勝海舟も | 松陰のブログ

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以前、洗足池にある勝海舟のお墓に行ったことがあります。私は子母沢寛著『勝海舟』を読破し、勝海舟も好きな偉人の一人です。ちなみに余談ですが、子母沢寛氏の本名は梅谷松太郎というらしいのですが、坂本龍馬の変名・才谷梅太郎と似ていると思いませんか?勝海舟と吉田松陰先生とは深い関係があります。勝海舟も吉田松陰先生も佐久間象山に師事しているのです。いわば兄弟弟子のようなものなのです。佐久間象山と言えば、開国論を掲げ、攘夷派の志士・河上彦斎等に暗殺された一大傑物です。佐久間象山という有能な人物が暗殺されたのは悲しい事実です。佐久間象山と勝海舟は弟子だけの関係ではありません。佐久間象山の奥さんは勝海舟の妹の勝順子です。つまり勝海舟は佐久間象山の義理の兄なのです。また江戸っ子の勝海舟には幼少期に男性の大事なところを犬に噛まれるという(全く面識のない)爆笑問題の田中のような逸話を持っています。勝海舟には面白いエピソードがたくさんあります。坂本龍馬が初めて勝海舟に会った時、坂本龍馬は西洋かぶれで開国派(尊皇攘夷派からは狙われていました)の勝海舟を切ろうとしていたと聞きます。しかし、勝海舟と会って話をし、勝の魅力に惹かれ、弟子入りし、神戸海軍操練所に参加することになります。坂本龍馬や西郷隆盛を魅了したのですから勝海舟はやはり魅力ある人物だったのでしょう。勝海舟は幕臣でありながら倒幕と関わり、明治維新後も政府の要職についていたことから、福澤諭吉に厳しく批判されています。しかし、勝海舟は最後の将軍・徳川慶喜を最後まで心配していました。まず、明治維新後、静岡県に隠居した徳川慶喜が経済的に困窮しないように、静岡でお茶の産業を興します。現在、お茶どころとして有名な静岡のお茶は勝海舟が始めたものです。そして、徳川慶喜と明治天皇との拝謁に尽力に成し遂げたのです。これは勝海舟の想いが成就されたものです。勝海舟は日本全体のことを考えながら幕臣として役割を果たした偉人なのです。