松陰のブログ

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河合隼雄著『無意識の構造』という書籍を紹介する。

河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍ではユング氏の心理学を紹介しています。ユング氏は、『夢判断』の著作で有名なフロイト氏の弟子です。ユング氏はフロイト氏の『夢判断』を読んですっかり感激しました。その後、ユング氏とフロイト氏の間に手紙のやりとりがあり、とうとう、ユング氏は夫人と共にフロイトを訪問したのです。その後、両者は精神分析学の成立のために協力しあい、1908年には共にアメリカのクラーク大学に招かれて講演をし、1909には国際精神分析学協会を設立しました。しかし、両雄並びたたず、両者の学説の差が明らかになるにつれて、お互いの心は離反し、1913年を境にして二人はきっぱりと分かれてしまい、各々が独自の道を歩むことになったのです(9頁参照)。

人間というものは思いがけない失敗をしでかしたり、してはならないと知りつつやってしまったり、愚かなことを繰り返すものです。私達は、「ままならぬ」のは他人の心と思いがちですが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」ものなのです(12頁参照)。ひとつのこだわりになっているために、連想の流れが妨害されます。人は感情的なこだわりをもつ時、意識のはたらきの円滑性が失われるのです(15頁参照)。何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが、無意識内に形成されている時、それを「感情的によって色づけられたコンプレックス」とユング氏は名づけました。これを後には略して、コンプレックスと呼ぶようになったのです(16頁参照)。コンプレックスの働きにより、私達の意識が無意識の作用に影響されていることが明らかになりました。人間の心を意識と無意識などと層構造に分けて考えるところが深層心理学の特徴です(25頁参照)。

私達は、自分のした行為や、考えたこと、感じたことなどについて、「私がしたこと」とか「私の考え」などと表現します。この「私の」、「私が」という主体、つまり、人間の行為や意識の主体として「自我」があります。自我は、色々な働きをしています。まず、外部の知覚ということが挙げられます。自我は視覚、聴覚などの感覚を通じて外界を認知します。次に、内界の認知ということもあります。自分の内的な欲望や感情を認知します。これらの経験は、記憶として体系化し保存しておかねばなりません。しかし、これらのことは複雑にからみあった過程です。つまり、記憶体系に基づいて知覚したものに判断を下している反面、新しい知覚に基づいて、記憶体系が改変されることもあるからです(27頁参照)。自我はまた、ある程度、統合性を有することが必要です。つまり、ひとつの纏まった人格として存在するためには、その中に大きな矛盾をもつことが許されません。自我はそこで自分の統合性を保持するために、自分自身を防御する機能も持たなければなりません(28頁参照)。自我は、その存在をそのまま保持するために、新しい経験を取り入れるのを排除しようとする傾向を持ちますが、人間の心全体としては、何か新しいことを取り入れて自らを変革しようとする傾向を持つものであり、このような相反する傾向を有しているところが、人間の心の特徴です(28頁参照)。

ユング氏は、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している個人的無意識と、他の人間とも共通に普遍性をもつ普遍的無意識とに分けて考えています。ユング氏は心を層構造に分けて考えています。個人的な無意識とされる層は、一度は意識されながら強度が弱くなって忘れられたか、あるいは自我がその統合性を守るために抑圧したもの、あるいは、意識に達するほどの強さを持っていないが、何らかの方法で心に残された感覚的な痕跡の内容から成り立っています。普遍的無意識とは、個人的に獲得されたものではなく、生来的なもので、人類一般に普遍的なものです。このような人類一般に共通のものにいたるまでに、ある家族に特徴的な家族的無意識とか、ある文化圏に共通に存在する文化的無意識などを考えることができます(33頁参照)。

私達の行動は思いのほかにイメージによって動かされているものです。内界を表すものとしてのイメージもありますが、一般に心理学においては、その逆に、外界の模様としてのイメージを考えることが多いです。イメージを知覚対象のない場合に生じる知覚像と定義します。イメージに対しては実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方は両極端を示しています。実際に、個々のイメージはこの両者の中間にあって、内界、外界の両方からの影響を受けて存在しているものです。普通の言語と、身体言語との中間的存在として、イメージ言語が存在します(37頁参照)。イメージとして取り扱っているものは、視覚像そのもの(個人の主観的体験)、視覚像の表現(a言語による表現、b非言語的表現)、外在化されたイメージ、に分類されます。これらのイメージはある個人の内的な状態を、何らかの意味で反映している点に特徴があります。個人の内的な状態がそれに関連しています(33頁参照)。

物理学にはエネルギーという重要な概念があります。物理的な「仕事」がなされた時、それに相応するエネルギーが消費されたと考えます。このエネルギーは位置エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなどと姿を変えますが、そこには「エネルギー保存の法則」が働いています。別に物理的には仕事をしていないのに、後で疲れを感じることがあります。心理的な仕事が行われている時にも、それに見合うだけの心的エネルギーが消費されているのです(46頁参照)。心的エネルギーは、心の中をたえず流動しています。自我は心の内部にある心的エネルギーを適当に消費し、それは睡眠中や休息中に補給されます。心的エネルギーが無意識から意識へと向かう時をエネルギーの進行、逆に意識より無意識へ向かう時を退行と呼んでいます(48頁参照)。心的エネルギーの退行によって、神経症的な症状が生じます。ユング氏は、退行には病的でないものもあると考えました。創造的な心的過程には退行が必要だと考えたのです。全て創造的なものには、相反するものの統合が何らかの形で認められます。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされるのです。まず心の中に定立するものがあり、それに対して反定立するものが存在します。そこで、その片方を抑圧してしまえば簡単な解決は得られますが、それは創造的とは言えません。そこで、自我はその両方に関与してゆこうと努力すると、自我はどちらにも傾けないので、一種の停止状態におちいってしまいます。ここで、自我を働かせていた心的エネルギーは退行を起こし、無意識内へと帰ってゆくことになります。自我のそれまでの働きと無意識の働きが統合され、定立と反定立を超えた、統合的なシンボルが顕在化されてくるのです。それは創造的な内容を持ち、それに伴われて心的エネルギーは進行を開始し、自我は新たなエネルギーを得て活動することになります。創造過程に伴って、新しいエネルギーが自我にもたらされますが、それの運び手となるのはシンボルです。自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとする時、そこには適切なシンボル形成が行われなくてはなりません。人間の集団に適用して考えてみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、何らかのシンボルを見出すと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになります(51頁参照)。

河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍の中で重要なのは、146頁に記載されている自己と自我の関係です。自己は心の全体性であり、また同時にその中心です。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含します(146頁参照)。158頁に記載されているユング氏が自己のイメージを曼荼羅に求めたことです。自己の全体性を表すものとして、対立物の合一イメージがあります(158頁参照)。それを曼荼羅に求めたのです。この二点は熟読する価値があります。

自分を動かす自分の奥底に潜む系のイメージを掴むことができました。河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍は本当に読んでいて面白い書籍でした。

波多野誼余夫・稲垣佳世子著『無気力の心理学』という書籍を紹介する。

 

私が学生時代に波多野誼余夫氏・稲垣佳世子氏著の『無気力の心理学』という書籍を読もうと思ったのは、モチベーションについて知りたかったからです。モチベーションと言えば動機付け。やる気を出させることです。それならば、逆に、やる気が出ないというのはどういうことなのだろうかと思い、『無気力の心理学』という書籍を読破しました。

 

いくら努力したところで、自分のおかれている「ひどい」事態に、何ら良い方向への変化が生じそうもないと信じ、すっかり意欲を失っているのが無力感に他なりません。「何とかこの事態を切り抜けられるのではないか」と思っているうちは、まだいいです。事態がひどいものであれば、それだけ改善を目指して精力的に環境に働きかけるでしょう。しかし、自分の努力では何ともならないと思ったらどうか。たいていの人は、適応な行動をとることができず、情緒的にもひどく混乱してしまうでしょう(2頁参照)。ペンシルバニア大学の心理学者のセーリック氏は、「無力感の獲得」に関する実験的研究を行ないました。無力感、効力感という言葉が心理学の中でしきりに使われるようになったのはセーリック氏の功績です(7頁参照)。セーリック氏は実験を通じて、回避できない苦痛刺激に繰り返しさらされることは、三つのマイナスの効果を持つと述べています。第一に、環境に能動的に反応しようという意欲が低下することであり、第二に、学習する能力が低下することであり、第三に、情緒的に混乱することであります。実際、回避できないショックを受けた後で、実験箱の中で様々な行動を試みる実験用のイヌもいるのですが、その場合にも学習の仕方が遅いです。また、回避できないショックが与えられると、食欲が低下したり、血圧が上がったりすることも見出されています(7頁参照)。

 

自分は環境に好ましい変化を及ぼすことができるという一般化された期待が形成されることが効力感を導くようです(27頁参照)。人間は本来、環境に自分の活動の影響を及ぼしたい、環境を理解しコントロールしたいという欲求をもち、絶えず環境と相互交渉をしている存在であると言われています。環境とのやりとりの過程で、そうした欲求が満たされることは、人間にとって非常に快適な経験になるのです。自分の活動の結果、環境が「興味深く」変化した、自分が活動することによって、自分の思っているような変化を環境に生じせしめることができた、こうした体験は、さらにまた環境に働きかけることを動機づけます。そして、こうした体験が積み重ねられ、一般化されることにより、「自分は、環境におもしろい、楽しい変化をつくりだすことができる」という自信と意欲的な態度、すなわち効力感が獲得されていくのです(30頁参照)。物的環境からの応答的経験を通じて効力感が形成されていること。こうして形成された効力感が、自分のもつ諸能力を新しい場面で積極的に使うことを促し、知力の発達を促進することが考えられます(32頁参照)。

 

無力感と、効力感にはどんな関連があるのでしょうか。効力感とは、自分が努力すれば、環境や自分自身に好ましい変化を生じさせられうる、という見通しや自信をもち、しかも生き生きと環境に働きかけ、充実した生活を送っている状態を指します(51頁参照)。社会心理学者のデチャーム氏は、人間には、自分は自分の行動の源泉でありたい、自分の行動の主人公でありたい、という欲求があると強調します。もしそうだとすれば、自分が自分自身の行動をコントロールしているという感じがもてなくなった活動は好ましくなくなるのです(62頁参照)。スタンフォード大学の社会心理学者のレッパー氏は、ごほうびが自己評価に基づいて与えられた時には、内発的興味を低下させないという結果を見出しています。このことは、効力感の形成の問題を考える時、とても重要です。効力感の形成には、努力の主体、つまり行動をはじめ、それをコントロールしたのは、他ならぬこの自分であるという感覚、自律性の感覚が必要不可欠だと思われます。いくら好ましい変化を生じさせることができたとしても、誰かの命令ではじめたとか、何かほかの「やむをえない」事情のために努力した、というのでは、「ヤレヤレ」といった成功に伴う安堵感はあるにせよ、本当の効力感には繋がりそうにありません(62頁参照)。自律性の感覚を発達させるには、やりがいのある課題と取り組める状態にいることが前提として必要です。自律性の感覚を強める方法で、すぐに思いつくのは、自己選択の機会をもたせる、ということです。多くの選択肢の中から、自分で自分の好む活動を選ぶことができる、これこそ自分の行動の主人公は自分であるという感じをさらに強めるのです。それが効力感を発達させることにも繋がります(67頁参照)。

 

効力感というと、どうしても物事を扱う分野での達成と結びついて解釈されがちですが、環境における好ましい変化という中には、もちろん人間による好意的な反応が含まれます。他者との暖かい交流は、同時に、事物を扱う上での達成の喜びを増幅させ、効力感を導くことが多いです。自分の成し遂げた仕事が、誰か他の人のために役立った、他の人に喜んでもらえた、という実感は、決して自律性の感覚や内発的興味を低下させるものではなく、むしろ達成や成就により大きな意味を与える、と思われます(73頁参照)。他者の成功が即自分の失敗を意味するような関係では、自分が仲間の中で生きている、仲間とともに自分も成長している、という実感が得にくいものです。その意味で、競争的な関係が強調させる文脈は、効力感の育つ素地として不適切なのです。他者との競争が強調させる時には、満足感は、自分が努力したことからではなく、自分の能力の高さや好運からくるとする見方が強くなることが示唆されています。さらに、競争的な文脈では、自分や相手の「能力」を評価することにもっぱら関心が向けられます(76頁参照)。競争が強調させる文脈では、人々が結果志向的になります。エイムズ氏は自分自身の一連の実験結果に基づき、競争を「基本的に失敗志向システムだ」とさえ述べています。競争的文脈では、勝者は勝つことにより、ますます自分の偉さに酔い、敗者は一層自己卑下が強くなります。競争的文脈では、そこにいる人々が、お互いに友好的ではなくなるのです(79頁参照)。一方、ひとつの目標の達成を目指して、仲間同士がやりとりすることは、効力感を形成するやりとりの形と考えられます。いわゆる協同的な学習です(81頁参照)。目標を共有しながら、各自が積極的に意見を出しあい、討論する、仲間同士でのこのようなやりとりが、自分は相手に認められているという実感をもたらすのです。そして、自分は一人ではない、自分が困った時には手助けをしてくれる友達があるのだ、と思うようになるのです。自分の存在感や自信も強まろうというものです。また、協同的な学習を通じて、他人のために尽くすという気持ちも育ってきます。使命感や奉仕の精神も、このように「貢献する喜び」を通じて伸びてくるのかも知れません。教えあいや協同的なやりとりが効力感の形成に寄与することが、実証的にも、ある程度確かめられています。自分が相手から必要とされている、自分のしたことが相手の役に立ち感謝された、自分の行為に対するこのような強烈な手ごたえは、物理的刺激とのやりとりでは得られにくいものです。自分と同じ仲間である他者とのやりとりを通じてのみ得られるものだと言えます。人間にとって、他者との暖かいやりとりは、効力感の源泉として極めて重要です(84頁参照)。

 

波多野誼余夫氏・稲垣佳世子氏著の『無気力の心理学』という書籍では、無力感と効力感という切り口から家庭教育(100頁参照)と学校教育(114頁参照)のあり方についても触れています。人間にとって大切なのは自律性であり、個々の自律性を育める社会こそ効力感を得られる社会なのではないでしょうか。将来に不安のある社会は、無力感を獲得しやすい環境と言えます。将来に夢や目標、ロマンのある社会を創造していかなくてはならないと思います。今後、日本経済は成長しないという方もいますが、日本と似た状況のOECD各国と比較してみて、最近の10年間(1999~2008年)おける、OECD各国の平均名目GDP成長率は5.6%なのに対して、この間、日本だけがデフレで、名目GDP成長率はゼロです(『日本経済のウソ』高橋洋一著 86頁参照)。日本と似た状況のOECD各国が成長できて、なぜ日本だけが成長できないというのでしょうか。私は経済政策のやり方次第だと思います。人間も国家も活力が大切です。活力の源泉は効力感であり、そのためには、なるべく無力感を獲得しにくい社会を創造していかなくてはならないのです。ちなみに、国家の借金を強調する方もいますが、それならば、なぜデフレを放置しているのでしょうか。デフレは貨幣価値を高めること、つまり負債の価値を高めていることでもあります。なにか奇異に感じてしまいます。波多野誼余夫氏・稲垣佳世子氏著の『無気力の心理学』という書籍が教えてくれるのは、やはりポジティブが気持ちを持ち続けることの重要性だと思います。

宮城音弥著『人間性の心理学』という書籍を紹介する。

心理学では幸福をしばしば「精神的適応状態の意識的側面」と定義するようです。人間は動物と同様に食物をとり、危険な敵から逃れようとします。同時に、このような適応に成功した時、自分が適応しているという感じをもちます。適応状態を意識します。これが幸福です。人間の適応には自然的適応の他に社会的適応がありますから、社会的不適応を示す不安や罪の感じをもたないことも幸福の条件です。幸福が意識すなわち、感じられたものであるならば、それは幸福感にほかならないでしょう。一般の人にとって、適応感すなわち幸福感でありますが、時に「適応なき幸福感」も存在しないわけではありません。それは、あたかも、見たり聞いたりする知覚が、現実の性質をつかむためであるのに、幻覚という「対象なき知覚」があるようなものです(1頁参照)。

私達が日常、幸福と称するのは主観的で心理的な幸福感です。この意味の幸福が「適応状態の主観的側面」だとするならば、幸福すなわち快なのでしょうか。しかし、「快」があっても不幸な場合もあるし、苦痛があっても幸福な場合があります。心理学者のマクドゥーガル氏が語っているように、事業に失敗して心を慰めようと音楽を聴き、快感を味わう時、不幸でありながら快感をもつし、ジャン・ヴァルジャン氏が過去を思い出す時、苦痛ではあるが、完全に幸福なのです(4頁参照)。快を感覚感情、爽快を生命感情、喜びを心情感情と呼び、幸福を精神的感情として区別するのは、幸福には知的な条件が関与するからです。幸福というのは、いわば、快、爽快、喜びなどの音によってつくられたメロディーのようなものです。時には、不快や憂鬱も混じっていますが、それは音楽の不協和音のようなものであって、しるこに塩を入れるような役割をします。総合的な快や喜びこそ、人間の精神的適応状態を示すものであって、幸福とはこのようなものです。総合的であるために、幸福は何かに対する快、何かに対する喜びというものではありません。対象がないものです(7頁参照)。

人間は社会的動物であるために、完全な適応は個人だけでは可能ではありません。私達は他人が喜んでいる時に喜び、他人が悲しんでいる時に悲しみます。したがって、当然、他人を喜ばそうとします。自分が「喜び」を得るために、他人を喜ばすというのは利己的であって、人間はそのような目的を意識せずに他人を喜ばせているのではないでしょうか。しかし、私達は水を飲む時、身体に水分を補充するという目的を意識していません。目的はあっても、それを意識しているとは限りません。社会生活が最も完全に行なわれているのは、人間が「持ちつ持たれつ」の生活をする時であり、“共生”というべき状態です。「持ちつ持たれつ」の生活がしたいという欲求を宮城音弥氏は共生欲求と呼び、共生欲求の意識が愛だと主張しています。愛の場合には個人の喜びは相手の喜びと統一されます。愛児の喜びは自分の喜びであり、愛妻の悲しみは自分の悲しみです。最も総合的な幸福が愛であるのはこのためです。他人の不幸を喜び、他人を排撃し、自分のことだけしか考えない人間がいることは事実です。この人間にとって、このような欲求を満足させることがよいことだ、ということは、自己を犠牲にして善いことをすべきだという常識と矛盾します。しかし、このような人の幸福は、精神薄弱者や進行麻痺の幸福感と同様の「適応なき幸福感」に近いものです。幸福を求めることは、よいことをしようとする意志と矛盾したものだという考えは、幸福というものが自分を犠牲にする喜びを含むことを忘れているばかりではなく、幸福が、人間では、自然的愛情と切り離されたものではないことを無視しているからです(7頁参照)。

私が宮城音弥氏著の『人間性の心理学』という書籍で興味深かったのは、人間の感情の多さです。感情には、快苦感、情操、情動、熱情、体感感情、意識感情に分けられ(33頁参照)、さらに喜び、悲しみ、不安、憂鬱、笑いなどに細分化されていきます。『人間性の心理学』という書籍で重要なのは、第二章の「価値について」です。そこには様々なエッセンスが記載されています。

詫摩武俊著『性格』という書籍を紹介する。

性格というのは広義における行動の個人差を環境の諸条件ではなく、主体的条件に関して説明しようとする概念です。性格の定義には大きく分けて二つあります。一つは、「相手に関する刺激価、あるいは社会的効果である」と見る考え方です。刺激価とはAという一人の人がどんな人として相手に受け取られるかということです。第二の立場は、「性格というのはその人の内側にあって、その人らしい行動の傾向を生み出し続けているもの」と見る立場です(24頁参照)。詫摩武俊氏は性格についての二つの見方は両立しうると考えています。つまり、ある人の他人に及ぼす社会的効果は確かに受け取る人によって相違するが、受け取る人は相手の中に一定の行動傾向があることを前提として認めているのです。また、性格というのは個人の中にあるものと考える立場もそれが相手によって受け取られ方に差が生ずるという事実は否定できないのです(26頁参照)。

詫摩武俊氏は、一般に人の行動の内側にあってその人に特徴的な行動の仕方、考え方、ものの見方などを生み出し続けている態度の総合体を性格と考えています。学者によっては、性格を個人における感情および意志の比較的恒常的な反応総体と定義し、情意的または意欲的な行動様式の特性という面を強調することもあります。この場合の性格には知的特徴を含まず、パーソナリティの感情的、意志的側面を指しています。また性格には価値概念が含まれていて、性格は評価されたパーソナリティであり、パーソナリティはこのような価値評価から離れた性格であるという見方もあります。パーソナリティの語源については諸説ありますが、ラテン語のペルソナに由来すると一般には考えられています。これは、当時、劇で使用される仮面を指していました。やがて劇の中で俳優が演ずる役割を意味し、さらにその役を演ずる人自身を意味し、また特徴をもった人を指すようにもなりました。今日でもパーソナリティの定義は数十通りもありますが、全般的な特徴としては個人の統一性という点と、環境に対する適応機能に関する全体的な特徴という点を重視し、知能や感情を切り離していません。性格という概念はどちらかと言えば、静態的で、個人差という点を強調しているのに対して、パーソナリティはもっと広く、そしてダイナミックであるという特徴があります(26頁参照)。

詫摩武俊氏著の『性格』という書籍では、性格に関して六つの類型を挙げています。それは、開放的で社交的なZ型、非社交的で生真面目なS型、頑張り屋で融通のきかないE型、華やかで嫉妬深いH型、敏感で内省過剰なN型、自信に溢れ自己中心的なP型です(37頁参照)。その性格はどのようにつくられるのか、という問題は古くから人々の関心をもつところでした。性格の形成に影響を及ぼしているのは遺伝か環境かという問題は、生得説と経験説の対立という形で以前から議論されてきました。人の性格は生まれつきのもので、ほとんど変わるものではないと主張するのが生得説です。経験説というのは、人の心はもともと白紙のようなもので、どんな家庭に生まれ、どのように育てられたかによって性格はつくられていくと説く立場です。性格の形成にあたって遺伝的要因だけが働くという立場、環境的要因だけが働くと考える立場を孤立要因説と言います。性格のような複雑なものの形成過程をどちらかの要因だけによって説明しようとするのはあまりにも非現実的です。次に加算的寄与説というのがあります。これは遺伝か環境ではなく、遺伝も環境もともに働くことを認めていますが、両者が相互に独立した無関係な要因であって、それがたまたま一つの特徴の発現において合流していると見る立場です(90頁参照)。これと類似したことをベイトソン氏も述べています。ベイトソン氏のダブルバインド(二重拘束)という概念は、進化を遺伝的要請と環境の要請の板挟みになった生物が、問題を創造的に解決し続けていくプロセスと見ました(『企業進化論』野中郁次郎著 252頁参照)。

詫摩武俊氏著の『性格』という書籍で興味深いのは、同じ特徴の性格にも関わらず、見る人によって感じ方が違うということです。人は判断し評価したように相手があると考えがちです。人によって見方は違うのだということは、理屈として分かっていても、急を要する判断の場合には忘れがちです。性格の差に基づく判断の差は、要するに個人と個人の違いであって、標準のズレという点からは論ぜられないのです。一人の人物DをAはおとなしいと評価し、Bは無気力で暗いと評価しても、それはどちらが正しいと断言できないのです。そして、このような評価に従って、人は相手に接し、臨むことになります。直接、自分が会わなくてもその人についての断片的な評判を聞いて、勝手にイメージをつくり上げてしまうこともあります。そして、そのイメージの持ち方も人によって違うのです。例えば、E君はなかなか快活な人だという評を聞いて、AはEを騒がしくて、でしゃばりだと思い、BはEを明るくて積極的な人だと思うことがあります。このことは言葉でもって表現されたものの受け取られ方に個人差があって、同じ刺激を与えても同じ反応が得られるとは限らないことと、性格を記述する言葉そのものに色々な意味があることを示しています。同じような特徴をよく解釈した場合と悪く解釈した場合を挙げてみます。意志が強い頑固、積極的あつかましい、世話好きおしつけがましい、社交的軽薄、さっぱりしている単純、慎重ぐずぐずしている、説得力がある口がうまい、粘り強い執念深い、素直自主性がない、誇りをもつ威張っている(15頁参照)。面白いですね、同じ特徴の性格でも良くも悪くも取れるのですか。同じ行動でもその人の意図や感情によっては良くも悪くも評価できることを示しています。

樺旦純著『図説・心理トリック―たとえば「何が彼(彼女)をそうさせたか―』という書籍を紹介する。

ビジネスや交渉の場、あるいは日常生活の中で、人間関係を損なわずに、自分の意見・意思を通すには、相手の心理を読んで行動に出る必要があります。この過酷な心理戦争、駆け引きに勝つか負けるかの差は非常に大きいです。樺旦純氏著の『図説・心理トリック―たとえば「何が彼(彼女)をそうさせたか―』では、人間の心理のメカニズムを一つ一つ解き明かし、様々なトリックを取り上げることによって、他人の心理のウラのウラまで読み取るコツを詰め込んでいます(5頁参照)。

一種のセールス・テクニックの応用といえるものに「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」というものがあります。心理学では、ドアを一歩踏み込んでから徐々にこじあけていくという意味でこう呼んでいます。つまり、人に困難な頼みごとをする時には、まず簡単な願いをきいてもらってからの方が相手に受け入れられやすいです。このことに関連して、アメリカの社会心理学者フリードマン氏とフレイザー氏の実験があります。ある町の主婦を対象に「お宅が現在お持ちになっているあらゆる家庭用品について、情報を提供して欲しいのです。その際、戸棚、押入れ、倉庫なども自由に見せて欲しい」という相手が嫌がる調査を、以下の三通りの方法で依頼してみました。相手先をいきなり訪れて「調査に協力して欲しい」と頼む。②あらかじめ電話で連絡をとり、調査の内容の説明をしておいてから、その後で依頼する。③この調査に関するアンケート調査をはじめに依頼し、了解を得た上で、日をおいてから実際の調査を依頼する。調査では、①は22%、②は28%、③はなんと53%の人から承諾がもらえました。この実験の結果は、相手が嫌がることをうまく承諾させるには、気軽に承諾できるような簡単な事柄を最初にOKさせておいてから、本題の依頼をする方がより効果的だということがよく分かります。いきなり、本題の依頼をしたのでは、相手もなかなか引き受けにくいので、簡単に断られてしまいます。そこで、やっかいな用件を相手に依頼する際に、このテクニックを用いればうまくいくに違いありません。そして、実はあなたも、これを無意識のうちに利用しているのです。例えば、難しい取り引きを依頼する場合、いきなり承諾をしてもらおうとしても、「はい、そうですか」と簡単にOKしてくれません。それならば、まず相手に電話を入れて、とにかく仕事以外の接触をもつチャンスをつくることからはじめます。相手が気軽にOKできそうな小さな誘いからはじめて、相手のドアに足を入れてこじあけるようにし、それが何回か成功するようになってから本題の取り引きに入れば、OKも取りやすくなるのです(24頁参照)。

心理学では、集団の説得をする際、あらかじめ何人かのサクラをしのばせておくと説得しやすいことが分かっています。あらかじめ根回しをしておき、応援者をつくっておくと、大変スムーズにいくのです。リオのカーニバルなど大きなパレードでは、楽隊車のことをバンドワゴンと言いますが、集団の説得の際に、その話し合いの場を盛り上げる人がおよぼす影響のことをバンドワゴン効果と言います。そして、このバンドワゴン効果を高める人を、バンドワゴン・アピールと呼びます。なお、この場合、サクラは多ければ多いほど集団に与える影響は大きいです(39頁参照)。