平成30年12月1日、宇治谷猛訳の『日本書紀(上)』を読破した。 | 松陰のブログ

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平成30年12月1日、宇治谷猛訳の『日本書紀(上)』を読破した。  
 『古事記』を読み終え、比較するために『日本書紀』を読んだ。『古事記』は、国内向けに天皇家の正当性をアピールするために編纂されたもので、一方、『日本書紀』は、国外に向けて日本をアピールために編纂されたものである。
 
 実際に『日本書紀』を読み、『古事記』と比較してみると、古事記は、ひとつひとつの神話を詳細に記載しているのに対し、日本書記は、その神話の何個かの諸説を書き出して記載している。例えば、八俣の大蛇に関する記載。古事記では、ひとつの物語りを丁寧に紹介している(次田真幸訳 『古事記(上)』 97頁参照)。それに対して、日本書記では、「一書にいう」という形式を取って、五つの書での八岐大蛇の物語りを紹介している(47頁参照)。
 
 やはり古事記と日本書紀における最大の差異は、日本武尊に対する記載である。古事記では、倭建命は粗暴で好まざる人物として描かれているのに対し、日本書記では熊襲や蝦夷を討伐した英雄として描かれている(163頁参照)。古事記には、「天皇は小碓命(倭建命)の猛々しく、荒々しい性情を恐れ」(次田真幸訳 『古事記(上)』 138頁参照)とある。さらに、倭建命は朝夕の食膳に出席しない兄の大碓命の行いに対し、夜、大碓命を闇討ち、手足をもぎ取り、薦に包んで投げ捨てている(次田真幸訳 『古事記(上)』 138頁参照)。日本書記では、「幼い時から雄々しい性格であった。壮年になると、容貌は溢れるばかりの逞しさであった。身長は一丈、力は鼎を持ちあげるほどであった」(153頁参照)と好意的に紹介している。日本武尊は女装をして川上梟帥を倒した。熊襲討伐への足掛かりを作る。その際、殺された川上梟帥は、死に際に、日本武尊を尊敬し、“日本武皇子”という尊号を与えている(164頁)。蝦夷の首領の島津神、国津神は、日本武尊の姿を見ただけで降参し、「君のお顔を拝すると、人にすぐれていらっしゃいます。神様でしょうか」と述べている(168頁参照)。古事記では粗暴で邪魔者扱いの倭建命を日本書紀では、日本武尊を明らかに神々しい英雄として扱っているのである。
 
 また、古事記に比べ、日本書紀では、歴代の天皇陛下への記述が詳細である。各天皇がどのような性格で、どのようなことを行い、その時代に何が起こったのかなどを詳しく記載している。加えて、国外に向けて日本をアピールすることを目的にしているためか、任那、新羅、百済、高麗が頻繁に記載されており、日本国の朝鮮半島における影響力の大きさも分かる。神功皇后の章では、新羅と戦っていて、その後も、何度も新羅と戦っている。
 
 日本書紀は、古代における歴代の天皇を知るには最適な書籍だと思った。ちなみに、古事記は、稗田阿礼、太安万侶が編纂し、日本書紀は、舎人親王が編纂した書籍である。