この世の楽園――聖魔女の国・プチサンプル | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 残念ながら――これまでの人類の歴史(ボクの知る記録が残っている範囲)で、女性社会が達成されたことはない。なのにボクは女性社会(ただし「聖なる魔女」が主役を務める世界)の達成を望んでいる。それこそが人類が楽園世界を創造するために必須の橋頭堡だと思っている。

 なぜか?
 それは歴史をひもどくと――女性社会そのものではないけれど、母系社会(あくまで地域的なエリアではあるが)ならばチラホラと散見され……そこは(限定的ではあるものの)平和な世界をつくっていたという事実がある。
 そして重要なのは……その主人公だった女性たちは、アマゾネスのような男勝りの存在ではなく、霊力を発現させた聖魔女だったということ。

 このことについてもボクの著書『聖魔女待望論』から、そのあたりを引用してみよう。ただし、このブログでは「まず聖魔女の国」の素敵を分かってほしいとの思いから、著書とは順序を変えている。
 おいおい説明していくの、そこのところはご理解いただきたい。

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糸満の話

 ボクは大阪のひとなんだけど(前にもいったか――笑)、仕事の関係で、一時、沖縄に住んでいたことがある。それも那覇でなく、本島最南端の市である糸満だ。この糸満は、むかしから漁師の町である。糸満漁師といえば、勇敢な漁の達人として有名である。

 ……中略……

 糸満の女性には生活力がある。かといってオトコ女ではない。都の首里を擁する那覇のしっとり女性に比べると、魅惑的なお色気は少ないが、はつらつとして魅力的だ。そして、なにより人情深い。こういうのをホントの自立というのだろう。
 かといって、彼女たちには突っ張って自立しているという認識はない。オトコ女のように声高に自立を叫んでない。とても自然なのだ。自然に女性社会……いや、母系社会をつくっている。
 このことを理解するには、少し、歴史をたどる必要がある。
 右でも述べたように糸満は漁師の町だ。ところが、いまのように動力付き、無線付き、レーダー付きの船がなかった時代。男はサバニと呼ばれる舟で漁に出た。外洋には鮫もいれば、嵐もある。板ひとつ下は地獄の世界だ。今朝「いってきま~す」と出かけた亭主が、無事に帰って来るという保証はどこにもない。
 女性は、その瞬間から自分で生きていくことをしなければならない。子どもも自分だけで育てる算段をしなければならなかった。男性社会の中での「自立」なんて、浮ついた話なんかハナからなかったわけよ。オトーチャンが無事「ただいま」と帰ってくれば、それはラッキーというしかない。でも、いつもいつも、そんなラッキーに賭けているわけにはいかないのだ。帰ってこないならマシなほうで、鮫に腕や足を食いちぎられて帰ってきたなら、要介護付き扶養家族が増加する。
 だから面白いのは、陸の上のことは、すべて女性が担うことになった。陸上は女性の自治地域。なんと、オトーチャンが陸揚げした魚をオカーチャンが買うのだ。話の話ではなく、実際にお金を払って買うのである。オカーチャンとしては仕入である。そして、その魚を売りにいって生活するのだ。むかしは那覇まで徒歩で売りにいったという。ほら、あなたも、本やテレビなどの南国の風俗に関する記事や番組なんかで、頭にでっかい籠を載せてる女性の写真や映像を見たことがあるだろう。あれだ。
 オトーチャンはオカーチャンから得た売り上げで、舟を修理したり、漁の道具を買ったりし、残りは遊興費に使う。まあ、ほとんどの場合が、酒・女・バクチだ。それで英気を養って、また、板ひとつ下地獄に出動だ。
 漁師の中には出港したら一年以上帰らない連中もいた。遠くはフィリピンやインドネシアあたりまで足をのばしたという。北上するなら日本本土だ。ちょうど赤道上下流や黒潮が海のハイウェイとして流れているし、季節風を読めば、どこにでもいけた。
 当然のことながら、サバニ舟に冷凍庫はない。漁師はとった魚を最寄りの港で売り、腐らない品物に替えた。そして、また漁に出て、つぎの港で売る。売っては腐らないものに替える。このことをくり返し、やがて成果を携えて糸満に帰港するという寸法だ。
 だから帰ってくる時は、漁船ではなく宝船に変身している。魚でなく宝物を積んでいるのだ。宝船の絵に描かれている金銀財宝いっぱい状態といっしょ。きっと宝船は、この漁船がモデルになったんだろうね。
 また、これまた当然のこと(?)ながら、男は港みなとに女をつくった。フィリピン妻やインドネシア妻だ。そこで、生まれた子どもたちの中から、いちばん漁師の素質を持っている息子を後継ぎにしたわけ。沖縄のひとに流れる南国ポリネシアの血は、こういった経緯でもたらされたものも少なくないだろう。

 じゃあ、糸満の女のほうは、どうしたか? オカーチャンの動向だ。オトーチャンが一年後に戻るといったら、それまでは毎日、オトーチャンの無事を祈りながら待つ。このことは親族の女性が、男性の守護神となるウナイ神の民俗につながるようだ。
 まっ、それはさておき、オトーチャンが戻ってこなかった時、オカーチャンはどうするか? メールも電話もない時代である。連絡は、せいぜい、手紙程度。それも国際郵便のシステムが確立していたわけではない。糸満いきの船などに託されるわけだ。オカーチャンは自分の決めた期日まで、オトーチャンからの便りを待つ。
 やがて、期限が切れると、新しい旦那と結婚するのだ。もちろん、全員が全員、そういうわけではないが、当時、多くの糸満女性はそうしたようだ。オトーチャンが推定死亡なんだから、自分と子どものためには当然のことといえる。生命を「はぐくむ」ためだ。これが複数回あると、旦那が三人、四人と変遷することも、ままある。ボクの糸満の友人などは四人兄弟だが、全員、異母兄弟ならぬ異父兄弟だ。
 ところが、オトーチャンが忘れたころに、うっかりひょっこり帰ってくることもある。そんな時は、どうなるか? どうにもならない――どちらも旦那となる。まったく同等の地位が保証される。オトーチャンも約束の日までに帰ってこなかったし、連絡も取れなかったわけだから納得だ。そこに争いはない。もう亡くなってしまったが、ボクの知ってる料亭の女将(彼女は商売上手で糸満と那覇に料亭を持っていた)は、四人旦那がいて、そのうち三人は時期が重なっていたことがあったという。
 男性社会的発想だと、複数の男がヨメさんを共有している感じだが、けっしてそんなことはない。むしろ、成功した男が、ヨメ以外に複数の女性を囲っているのに近い。だって陸の上は、女性社会なんだから……ね。

 まあ、ボクだって、このことがそのまま現代社会に……なんて思っていない。でも、ある意味「素敵だなあ」と感じてしまう。もちろん、ボクがいるのに、ヨメさんが、ボク以外の旦那を持つことはイヤに決まってる。でも、ボクが死んでしまったあとまで、ボクに執着しているより、生きるために自分が最善と思える道を選択してほしいと思うのだ。
 ボクが推定死亡にされて、ひょっこり帰ってきたとしても、それはボクの責任だ。それよか、ヨメがしっかり生きて、子育てをしてくれてるほうがいいに決まってる。
 ついでながら、右記で、ひょっこり帰った男には、新しいヨメを娶る自由も保証されていたらしい。そうでないと片手落ちだもんね。ところが思いのほか、そうする男は少なかったということだ。性欲処理なら娼婦を買えばいいんだし、漁獲した魚の販売なら気ごころ知れたオカーチャンのほうがいい。それに、すぐまた海に出るわけだから……ね。
 ここで面白いのは、この女性社会=母系社会のほうが、男性社会より、はるかに平和であったということだ。そらあ、ごぜりあいはあっただろう。でも、その社会を揺るがすほどのものではなかった。
 これが男女反対なら、こうはうまくはいかない。ヨメと愛人の戦いで、修羅場ランバである。前章で述べた嫉妬女が大増殖である。それが男性社会だ。トフラー博士のいう暴力をベースにした社会だ。でも母系社会は「はぐくむ」をベースにしている。生命が、より輝く方向を向いているわけだし、それをコントロールするのが、生命そのものの力である「霊力」を持った女性なんだから、破壊に向かいようがない。

 ……後略……

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 また補足として、霊力を発現させた聖魔女については……

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素敵な魔女たち

 第二章で、魔女の才能を発揮した例として、与謝野晶子の話をしたよね。ところが男性社会において、堂々と魔女の才能を発揮すると、けっこう迫害される。だから、魔女の歴史は、ある意味、女性迫害の歴史ともいえる。
 中世ヨーロッパなんかでは魔女狩りというのがおこなわれた。魔女裁判にかけられ、火あぶりで処刑された。権力と結びついたキリスト教主義者とキリスト教を民衆支配の手段として利用した為政者が手に手を取って、女性の才能を弾圧をしたわけだ。とりわけジプシーやスラブの女性がターゲットとされたようだ。
 ところが後年、調べてみると、ぬれぎぬであった。いや、ぬれぎぬどころか、彼女たちは才能を生かして村人などのためにがんばっていたのだ。でも、彼女たちががんばると権力者は困る。
 たとえば、彼女たちの工夫によって、農作物の収穫がアップしたとしよう。当然のことながら、富を蓄えることができる。すると権力者にとっては、将来の脅威となりかねない。その時に原始的な宗教儀礼がおこなわれる。こちらはキリスト教信仰の妨げになる。いずれにしても支配構造を堅持強化するためには排除しないといけない。それで魔女狩りと相成ったわけである。いってしまえば、男性社会の暴力だ。

 せっかくだから、ちょっとだけ詳しく説明しよう。
 このキリスト教による弾圧と魔女との対決が多かった地域のひとつにスラブ地方がある。いまでいうなら、西ロシアとかウクライナあたりになるのだろう。
 当時の農村の暮らしでは、農耕はいうにおよばず、結婚、誕生、病気、天候、葬礼……など、あらゆる生活のシーンにおいて、原始的な宗教儀礼がおこなわれた。そして、その大役を担ったのが魔女であった。聖なる魔女たちは、詩的な霊感を持ち、秀抜な知恵や予知能力を駆使して、ひとびとの生活を支援していた。

 ……中略……

 だって「霊力」を開発しているわけだから、ひとびとの暮らしを「はぐくむ」ことで、その素敵な役割をはたしていた。ロシア語で魔女を表す「ведьма(ヴェヂマ)」は、ヴェドやヴェシチを語源としていて、予見力を持ち、自然からの情報を読みとり、神意を民衆に伝える役目の意味だという。つまり「霊力」を使って、ひとびとを幸福に導く存在がヴェヂマ=魔女だったわけだ。
 中には、その力を悪用した性悪もいたかもしれないけど、ほとんどの魔女は、ひとびとの尊敬を集めていた。近世になって、ぬれぎぬを晴らすことに尽力したN・M・ガリコフスキーは、呪文や薬草で病気を治す魔法治療師(ズナーハリカ)と、邪悪なパワーを借りて呪いをかけたり民衆を惑わす悪い呪術師(コルドウーニヤ)は完全に区別している。
 魔女たちは、草木の効能を使った医者であり、子どもたちの名付け親であり、家庭争議の調停者であり、呪文を唱えて悪疫や自然災害を退散させるエクソシストであった。そう、ひとびとの幸福を「はぐくむ」支援者だったのである。
 でも、その活動のベースが自然崇拝であり、いろいろな精霊との対話や呪文という神秘的な要素を持っていたため、絶対神を冠する連中からしたら、そこが格好の攻撃材料となってしまった。だから、悪いこと――例えば飢饉や疫病があると彼女たちのセイにされ、魔女狩りに遭った
 このことは反対に考えると、もともとの原始社会に連なる農村社会において、魔女がいかに崇拝の対象になっていたかの証左でもある。体系化された宗教哲学をバックボーンに持つ神々の侵略がはじまるまでは、魔女こそが、その卓越した「霊力」を駆使して、農村社会を「はぐくむ」主役だったといっていいんじゃないか――とボクは思う。

 このことは日本にもいえる。
 右記で「糸満の魔女」たちの話をしたけど、もっと古くはノロと呼ばれる神女につらなる思想的背景がある。糸満の女性の「はぐくむ」ための強さやしたたかさのバックボーンである。糸満の話では、その具体的な顕れを述べたけど、それは連綿とつづく魔法の鉱脈(霊脈)から養分を吸い上げて咲いた花のひとつに過ぎない。
 沖縄には、大きく分けると二種類の霊媒=魔女がいる。ユタとノロだ。そして現在も厳然と存在している。まあ、かなり形骸化され、商業化されている部分もあるけどね。
 ユタとは土着民俗信仰から発生したお告げをおこなう神憑りである。たとえば、なにか悪いことがあったり、結婚や事業で悩んだりした時、沖縄のひとはユタに相談する。相談を受けたユタは、祭壇の前でトランス状態に入り、さまざまなお告げ――家相が悪いだとか、先祖供養が足ってないだとか――をする。相談者は、ユタのアドバイスに従い、問題を解決するのだ。まあ、ちょっと荒っぽい譬えをするのなら、細木数子さんのような運勢鑑定の霊媒バージョンと思えばいいかも知れない。そのため、どちらかというと職業霊媒というイメージだ。でも、ユタになるまでの修行は大変なので、とても尊敬されている。
 これに対してノロは職業ではない。ふだんは主婦であったり、OLであったり、農業をしていたり、食堂のオバチャンであったりする。つまり、別の職業なり、仕事なりを持っている。その普通の女性が、ある時――例えばお祭りだとか、儀式だとか――に巫女となるのだ。そして神女として「霊力」を発揮し、神さまからの神託を受け取る。シマ(島の意味ではなく、一定の地域……村とか部落とか。ヤクザのいう、それと同じ意味)の行事や行政を支援するのだ。
 むかし、政治を祭事(まつりごと)といったように、祭政一致の「祭」部分を担う重要な役割をはたしていた。男たちはノロの神託に従って、政治の方向性を決めていたわけ。琉球王朝では、この神女を組織化して、王さまの霊的アドバイザーチームとしていた。尚王朝時代、その最高位で、もっとも霊威(セジ)が高い女性神官を聞得大君(チヒヂン)と呼んでいた。まあ、いうなれば魔女のボスである。もちろん、いい魔女だよ。
 つまり、聖なる魔女を組織化し、その「霊力」からの情報ネットワークによって、国の方向性を決めていたというわけだ。それほど、女性の「霊力」は正しく使うなら、国の力となったのである。もちろん、ここでいう「正しく」とは「はぐくむ」ということ。それで、当時の琉球は「東洋のベニス」といわれるほど繁栄した。素敵な聖魔女たちのお陰である。

 この素敵な祭政方式は、海を渡って、日本本土にも伝えられた。まあ、時代はあとさきするけどね。その所在地論議で多くの人の関心を惹く「邪馬台国」なんかは、卑弥呼という魔女のボスが統治した国といってもいいだろう。
 そののち、男性社会が強化され、この魔女(神女、巫女、祝女などと呼ばれる)の役割も男性の手に移る。男性神官が担うようになる。その神官の最高位が天皇陛下だ。だから、天皇陛下が即位後、最初におこなう新嘗祭(にいなめのまつり)である大嘗祭(おおにえのまつり)の儀式プロセスでは、百日帳という浦葵(クバ)の葉で葺いた小屋に籠もり、国を「はぐくむ」のに必要な「霊力」を身につけるといわれ、この儀式はふつうの女性が神女となるためのそれと酷似しているともいわれる。
 それほど「はぐくむ」ための「霊力」は、社会を繁栄に導くために重要なことなのである。つまり、女性の持つ魔女パワーこそが、健全な社会のベースなんだよ。

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 と書いた。

 分かったかな?
 ちゃんと霊力を発現させた女性は、ひとびとの幸福を支援する聖魔女となる。よくイメージされるシンデレラに毒リンゴを喰わせたり、箒に乗って悪さをする鬼ババアとは別物だ。あくまで愛の実践者なんだよ。

 では、そんな霊力を開発して、素敵な聖魔女になるには? について、次回から、ゆっくりと解説していこう。