むかしからタブーとされている話題には、思想、信条、哲学、宗教、政治……などが挙げられる。とりわけ「宗教」は、その最右翼といっていいだろう。代表的なものに世界三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教という大分類がある。
仏教には浄土宗だとか法華宗(日蓮宗)とか真言宗とか禅宗(曹洞宗や臨済宗)……と呼ばれる宗門があって、さらに細かくは宗派に別れる。キリスト教だって、まずはカトリックとプロテスタントという二大分類があって――教派では正教会、ネストリウス派、メソジスト派、バプテスト……とヤマモリだし、イスラム教もシーア派とかスンナ派を筆頭にムータジラ派、アレヴィー派……といっぱいあるらしい。
これに日本では神社に八百万(やおよろず)の神を祀る神道があり、仏教(密教)と結びついた修験道とか、仏教と前後して渡来した道教なんかがある。さらに東北のイタコや沖縄のユタなどの霊媒信仰なども宗教のカテゴリーといっていいだろう。そのうえ新興宗教と呼ばれる教団があるわけだから、もうボクには「わけ分からん」状態だ。
でもね。これらのあまたある宗教をボクは一切否定しない。もちろん、地下鉄サリン事件なんかの犯罪をおこなった反社会的な旧・オウム真理教といったカルト宗教は絶対に完全ペケポンだけど……その信仰を持つひとが各々においてハッピーだったら、それでOKと思っている。
だって、なんらかのカタチでひとびとの健やかな暮らしや、ささやかな幸福に貢献しているなら、それはそれで立派なことだと考えるわけ。
また各々が相手の立場を尊重しての宗教談義についても妨げない。なぜなら『潮流は変わった――意識を変えろ!』でも書いたように――時代の潮流は、すべての垣根をぶっ壊して「いっしょくた」にしてしまったから……ビジネスの話をするにしても、ライフスタイルの話をするにしても、タブーと避けることは困難になってしまったからね。
しかし、この『ほしの宴』では、ある特徴というか……属性を持った宗教には、謹んでお断り申しあげることにしている。これまた著書『ごめんね、でも愛してるよ! ―「鬱(うつ)」から大切なひとを救うため、あなたができる魔法(こと)―』から、その部分を引用しよう。
――――――――――――――――――――――――――――――
・神仏の罰(ばち)があたると脅す宗教
先に述べたように「神さまの仕事」とは、ひとびとに福運を授けることだ。そして、その結果であるひとびとの幸福を自身の歓びとする存在である。いうならば、究極のサービス業だ。そんな神さまが罰をあてるわけがないじゃないか。そうだろ?
また仏道修行の重要な過程は菩薩行である。ひとびとを苦悩から救済することだ。これを仏法では「慈悲」という。そんな慈悲の塊(かたまり)である仏さまも罰なんてあてるわけがない。そう思わないかい?
もし、あなたが大切なひとの鬱で苦悩する弱みにつけ込んできたなら「へえーっ。おたくの神さま仏さまは罰をあてるの? 安物だね。こっちは高級品だから福運しかくれないよ!」とでも、いってやればいい。
・祖先の祟(たた)りを持ち出してくる宗教
これは宗教というより、不気味な霊能者や意味不明の占い師などに多いようだ。「あなたの大切なひとが鬱で苦しんでいるのは先祖が祟っているからだ。本人が大変で、できないようなら……あなたが代わって供養をしないといけない」なんていってくる。
それで、うっかりと口車にでも乗ろうものなら、とんでもない金品を要求される。最近は手口が巧妙になって、段階的に請求され……気がついたら、とんでもない額になっているということも少なくない。
冷静になって考えてみよう。あなたが先祖として、かわいい子孫に祟ってやろうと思うかい? ひどい目に遭わせてやろうと思うだろうか? 答えは明白だろう。なんとか守護霊になって導いてあげたいと考えても、祟ってやろう……なんてあり得ない話だ。
こんなのが、いい寄ってきたら、とっとと逃げるに限る。
それでも、あなたが気になってしかたないなら――大切なひとなり、あなたなりの菩提寺で弔ってあげよう。菩提寺が遠方で無理だったり、分からない場合は、近くのお寺でもかまわない。神社でも教会でもOKだ。さらにいうなら、あなたが自分で弔ってあげればいいじゃないか。ロウソクを灯し、香を焚いて、あなたの気持ちをお供えに託して……あとは「魔法の言霊」で大丈夫。ご先祖も、それがいちばんうれしいに決まってる。
・教えの内容に「戦闘」が含まれている宗教
処方箋で「闘わない」と述べたように「布教の戦い」だとか「勝利を勝ち取る」「闘争を勝ち抜く」「常勝を目指す」といった類(たぐい)の教義を持つ宗教は、この処方箋にはそぐわない。闘争の好戦的な「思い」が『わじわじ』にエネルギーを与えてしまうので……残念ながら、整合しないのだ。
とりわけ他宗教への悪口(本人は「悪口」でなく事実というのだが……)を自分の宗教のアイデンティティ(立脚の足場)として使うことは、これまた『わじわじ』のエネルギー源となってしまう。
大切なのは「攻撃」や「悪口」でなくて「祝福」「賞賛」なのである。
もし、あなたや大切なひとが、こんな教義や指導を持つ宗教の信徒ならば、信仰そのものは自由なので否定しないが――こと、この処方箋を実践する時だけは「闘争」を忘れてくれ。いや……無理なら、忘れなくてもいい。せめて「闘争」にピントを合わさないでほしいのだ。
……後略……
――――――――――――――――――――――――――――――
いいたいことは分かってもらえただろうか?
さらにプラスするなら「自分の信仰をひとに押しつける」「いらん(不要の)ものを売りつける」なんて宗教行為も『ほしの宴』では厳禁である。もちろん、ご本人が信心剛情なのはけっこうだ。それでハッピーなのだから、だれもとやかくいう筋合いはない。
ボクは思うんだけど……信仰というのは、そのひとが体現するものであって、ひとに強制するものじゃない。わたし仏法、あんた神道、彼はキリスト教、彼女は新興宗教……でも、ひととして素敵で、仲良しだったらいいと思うわけ。
それに――あなたが、あまりに立派でハッピーそうだったら、ひとが「どんな宗教を信じてるの?」って訊いてくる。その時に「じつは仏法(神道でもキリスト教でもいいんだよ)を……」と(あくまで相手を尊重して、押しつけをせずに)話せばいい。
それが本当に「縁に触れる」とか「縁を結ぶ」ということだと、くれぐれも分かっていてほしいんだな――この『ほしの宴』では……