潜在意識なんて存在しない | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ボクの「ほしの宴」セミナーでは、いままでの認識をすっぱり&きっちしリセットして臨んでいただくように求めている。

 ところが、ひとというものは、新しいテーゼが示されると、これまでの知識データベースを引っかき回し、そこから取り出した物差しで測ろうとする。でも『潮流は変わった――意識を変えろ!』で述べたようにパラダイム(地平)そのものが変わってしまっている現在、その物差し自体が役に立たない。ちょうど直定規で円周を測ろうとするようなもの――絶対に測れないのに無理ことに測ろうとして、自己矛盾を起こしてしまう。


 その典型が「潜在意識」論である。ある意味、二元化による手法の功罪なのだろう。それで「尚龍先生、それは潜在意識に擦り込むということですね?」なんて、おかどちがいの質問なんかをしてくる。ボクは「ほしの宴」セミナーで、潜在意識についてお話ししたなんてことは一切ない。

 今回は、この「潜在意識(という考えかた)の罠」について、お話ししよう。そこでボクの著書『ごめんね、でも愛してるよ! ―「鬱(うつ)」から大切なひとを救うため、あなたができる魔法(こと)― (現在、携帯読書版のみのイシュー……ごめんね。どこか出版したいところがあればコーディネイト乞う)』に適当な個所があったので引用しよう。


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 ひとの「意識」を「潜在意識」と「顕在意識」に分けることは、とても便利な支援手法ではある。ところが、ひとはいちど手法を設定すると、あたかもそれが普遍のものであるかのように勘違いを犯してしまう。
 そして、この処方箋では「ひとの意識を切り分けることはできない」という視座から、ひとが意識の理解を支援するために使う「潜在意識・顕在意識の二元論」を採らない。つまり「どこまでいっても意識は意識」であり、それは「意識」としか呼べない。
 その証左として、意識に潜在意識と顕在意識のボーダーラインを引いてみるといい。あなたは絶対にできない筈だ。ボクにもできない。ちょうど、ここに豆腐があって、あちら側とこちら側が、ちがうといっているようなもの。あっちも、こっちも、やはり豆腐でしかないにもかかわらず……。
 だから、この処方箋は「潜在意識に刷り込みをして、それが知らず知らず行動の原因となる……的な理解」とは相容れない。もし、あなたが、この二元論の信奉者なら――こと、この処方箋を試す時だけは、潜在意識という考えかたを忘れてほしい。「混ぜるな、危険」である。「意識は意識(仏教的には、識は識)」とシンプルに考えてくれ。
 たとえば、いま潜在意識側にある「犬」という概念。つまり、あなたはいま「犬のことは考えていない」わけである。ところが、ここを読んだ瞬間、あなたの頭の中に「犬」が登場する。そこで「犬のことは考えないぞ!」と、あなたが思えば思うほど、大量に「犬」がワンワンと出現してくるのだ。
 これが「こころのはたらき」である。このことを仏教の聖である天台智顗(てんだいちぎ)は、摩詞止観(まかしかん)の中で「一念三千」と述べている。簡単にいえば「ひとの意識は、いつでも宇宙大」ということだ。その宇宙大の意識を切り分けることはできない。
 そうなんだ。意識は宇宙大……すなわち、あなたの意識は、あなたの世界と等号で結ばれている。もっというなら――あなたは、あなたの意識そのものなのだ。だから、あなたの意識世界で、あなたの大切なひとが鬱で苦しんでいるなら、あなたの意識の問題だし、あなたの意識次第で変革可能ということ。
 これが、この処方箋の効果を保証する真髄部分である。


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 まあ、この著書は、鬱の家族を持つひとに向けて書いたもので、同書の処方箋ページからの引用のため、ちょっと紛らわしい部分があるかも知れない。そのところは汲んで読み込んでほしい。


 ほれ「潜在意識と顕在意識」の話をするひとが、ホワイトボードなんかに「氷山」の絵を描いて「海面から上が顕在意識で、海に隠れているのが潜在意識」なんて解説をする。でもって、いとも簡単に「海水面」に線を引いてしまう。そして、その話を聞いたひとは妙に納得してしまう。スゴイよね。
 たしかに氷山なら、実際に浮かんでいるので、海水面を認識するのは簡単だ。でも述べているのは「意識」の話だぜ。それを線引きして切り分けるなんて、本当にできたならノーベル賞ものだ。ボクは絶対にできない。あなたもできないにちがいない。


 そうなんだ。「意識」とは「あなたという存在そのもの」を示す。それを右手は顕在で、左脚は潜在なんて……できよう筈がない。

 もういちどいう。「潜在意識」と「顕在意識」という二元論的設定は、前世紀には便利な手法だった。でもそれは、あくまで便宜的な設定であって普遍ではない。なのに普遍であると勘違いを犯すから難儀なのだ。


 ましてや、万物が意識化に向かおうとする潮流下の「いっしょくた」の時代。拘泥していると、あなたが停滞してしまう。

 潜在意識(もちろん顕在意識も)なんて存在しないのである。