言霊ってなによ? | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ここしばらくのスピリチャルブームで「魔法の……(云々)」や「言霊」も、けっこう一般的になって来たようだ。

 そして理解は、大きく分けてふたつ。ひとつは、エライ学術的で専門的な方向で……いまひとつは「言霊っていったら、気合いの入った言葉」的な理解だ。そのお、学術的・専門的なのは説教臭くなってしまうので措くとして――後者については「惜しいので、もっと活用して人生を変革しよう」というのが「魔法の言霊」である。


 もちろん、あくまで寿詞説法師流の解釈なので、批判や非難はあると思うが――あなたが内なるこころに訊いて腑に落ちるなら、それでいいじゃないか! ということで、話を進めることにする。専門的に勉強したいなら勝手にどうぞ、である。
 そこで今回もまた、ボクの著書『魔法の言霊(東方出版刊)』から、その部分を引用しよう。


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 日本最古(最近、諸説プンプンだが)の和歌集とされる「万葉集」に「言霊(ことだま)」とか「事霊(ことだま)」という言葉が使われている歌が収録されている。これは万葉びとが、言葉に精霊が宿ると考えていたことを示すものといわれる。

 もともと古代人は、あらゆる事物に精霊が宿ると考えていたらしい。火に、水に、風に、石に、木に……動植物はもとより、いっさいの無生物にいたるまで、人間と同じような人格的な「生気」があるという考えかたで、イギリスの文化人類学者のE・B・タイラーが「アニミズム」と呼んだ。この思想は精霊信仰となり、火の神や水の神という概念を生み、やがて宗教や信仰を生んだとされる。

 古代日本人は、この思想を言語にまで広げ、言葉に宿る言語精霊が、その霊妙なパワーによって、ひとの幸不幸までを左右すると考えた。


 ……かなり中略……


 さきほど対比としてキリスト教社会を挙げたが、彼らにも言霊という概念がないというわけではない。どの宗教においても、その教義の根幹部分をなしていることは変わらない。
 例えば「新約聖書ヨハネ伝福音書」には、


 ――太初に言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この言葉は太初に神とともにあった。すべてのものが、これによって成り、成ったもので、ひとつとして、これによらないものはない。これに生命があった。この生命は、ひとの光であった――。


 という、よく知られている部分がある。つまり、言葉=神=生命=光であると、聖書はいみじくもいっているのである。しかし残念なことに、物質文明の発達とともに「言葉」は「神」から「単なるコミュニケーションの道具」に凋落してしまった。それは、とりわけ先進国社会においては顕著である。


 ……いっぱい中略(笑)……


 まずはコトダマという言葉自身。この言葉は主に神道系の言葉で、風水から陰陽道、そして陰陽師の安倍晴明ブームなどで知られるようになったが、それまでは決してポピュラーではなかった。若者には、サザンオールスターズが歌う『愛の言霊』で、その言葉自体は知られるようになったが、文字から「言葉の霊魂ということかな」という程度の認識のようだ。

 実際、近世になって国学者が用いるまでは、神道家や専門家でもない限り、あまり使わず、とちらかというと埋もれ去っていたといえる。また、コダマやヒトダマのように一般的ではない。それはコダマは山彦とも呼ぶように、あなたが、山で「ヤッホー」というと、「ヤッホー」と実際に聞くことができるし、ヒトダマはテレビや雑誌などの「怪奇現象」で写真が公開されたり、あなた自身や周りのひとで、実際に見たというひとも存在するからであろう。


 コトダマはコトとタマに分かれる。
 万葉においてコトダマは「言霊」または「事霊」、つまりコトは「言」または「事」と表現されているが「古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事は未分化で、両方ともコトというひとつの単語で把握された(岩波『古語辞典』)」というように同語源で同義と考えられた。

 つまり、事は、ひととひと、ひととモノとの関わりによって、時間的に展開したり進行する出来事であって、モノは時間に関係なく存在する。奈良時代以降になると、漢字から、事は類概念、言は種概念を持つ意味内容に分かれ、ついに「言」は言葉となる。

 民俗学者の折口信夫は『日本文学の発生』の中で、
 ――「こと」といふことは、ひとつのある連続した唱え言、呪詞並びに呪詞系統の叙事詩と言ふことだ。言霊は呪詞の中に潜んでゐる精霊の、呪詞の唱へられる事によって目をさまして活動するものである――。
 と述べている。つまり「言霊」のコトは呪詞(じゅし)であり、それ自体が神さまの霊威を内在し、唱えることで活動を開始し、発した者の意図に従って、目的に対して機能する存在のことである。


 では、タマはなんだろう?
 タマというと美しい宝石や美称(例えば「玉のような赤ちゃん」「玉のような肌」など)に使われるのが一般的だが、この言葉は霊魂に深いつながりを持つ。生命力を表すイノチや霊威を表すチカラの「チ」、奇霊(クシビ)や産霊(ムスビ)の「ヒ」が非人格的な霊威や呪力――マナ(メラネシア語で、マナイズムのこと。イギリスの文化人類学者R・H・コドリントンが太平洋諸島の原始的な宗教観として、人格的なアニミズムに対し、宇宙に存在する畏怖すべき超自然な力として唱えた)の内容を示すのに対し、タマは人間の内部から発する霊威を意味する。

 ただ、タマは玉・魂・霊の字を充てるが、ムスヒの「ヒ」にも霊の字を充てるのは、タマにヒの観念があったからであり、日本古来の神の名に霊や魂の字が見える「興登魂命(ことむすびのみこと)」や「神皇産霊(かむみむすび)」「高皇産霊(たかみむすび)」があるのは、チ→タマ→カミの順で進展した霊格が、その途上において、ないまぜになってしまったと考えられる。


 ちょっとむつかしくなってしまったので、これ以上は専門書に譲るとして、著者流の解釈を付しておく。言(コト)は言葉であるが、発せられるまでは眠った状態にある。発せられることによって目を覚まし、活動を開始する。これに対して霊(タマ)は、あなた自身に内在する生命力・霊威のことで、エネルギーのことだ。物理学でいう位置(存在)エネルギーと運動エネルギーをイメージすると分かりやすいかも知れない。
 コトは存在のエネルギーで、発せられるまでは活動をはじめていない。発せられることでエネルギー変換が起こり、具体的な作用を開始する。この時に推進力となるのがタマである。つまり言霊は、あなたが明確な意思を持って発することで、具体的なパワーを発揮するのである。


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 ……ということである。
 じゃあ「言葉を言霊に変身させるには?」となるだろうけど、それは次回以降のお楽しみだ。ここではまず、言霊について理解してほしい。