仏法談義3 | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ちなみに、あなたは「仏舎利」を知っているかな? そう、釈尊の遺骨のことだ。これは仏教を信仰するところでは、最高の宝物に属す。
 だから「うちの寺院には仏舎利が安置されている」なんていって、ステイタスにしているところも多い。ほれ、五重塔なんかの仏塔に納められているって寸法だ。


 ところが、とある調査によると、世界(といっても、ほとんど日本を含む東洋だが)に安置されているとされる仏舎利を合計すると、なんとインド象の骨格くらいになるとのこと。

 これを聞いて、あなたはどう思う?
 そのとおり! 仏陀は「すいぶんと大柄」のひとだったわけだ(笑)


 ところで、この仏舎利信仰というのは仏陀の死後、最後までお世話をしたアーナンダ(十大弟子のひとりで多聞第一といわれる阿難尊者のこと)が、それを八分割して仏塔に祀ったことに起因する。

 しかし、これは阿難の本意とするところではなかった。なぜなら、お師匠のいいつけに叛く行為であったからだ


 そのあたりのいきさつについては「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」に出てくる


 釈尊の涅槃が近いことを知った阿難が訊く。
「尊いかた。修行完成者のご遺体を……わたしたちはどうすればいいでしょう?」
 これに釈尊は、
「アーナンダよ。おまえたちは、修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな!」
 と答える。


 つまり釈尊は、仏舎利信仰を固く禁じたわけ。

 にもかかわらず、ほかの弟子や信者のプレッシャーで阿難は、お師匠のいいつけに反する盛大な葬儀をおこない、遺骨を卒塔婆に祀り、仏塔崇拝のきっかけをつくってしまった。


 きっと阿難は、とってもやさしいひとだったんだろうねみんなの心情を無視できなかった。でも結果として、釈尊の禁じた遺骨崇拝という機縁を生みだしてしまったわけ。
 う~ん、残念!


 さらにいうなら、この遺骨崇拝が日本に伝わり、墓地霊園というコマーシャリズムと結びつき――ある意味、人質(遺骨は逃げないからね)商売とされてしまってる。もひとつ、残念なところだ


 残念ついでに――先に述べた「修行完成者」という言葉を思い出してほしい。
 そう、修行の終わったひとのことだ。修行が終わったということはもう、この世に用はないのである。用がないなら、もう生まれてくることもないわけ。


 釈尊自身も「後有(後生)を得ず」とおっしゃている。つまり「おれはもう生まれ変わらん」と宣言されているのだ。

 そうなのだ。
 仏教とは輪廻転生という修行の過程から解脱するノウハウの粋なのである。


 というのも、当時の(いまでも?)インドは、ヴァルナと呼ばれる階級制度=カースト(最上位の司祭といわれるブラーフマナ、王侯貴族であるクシャトリア、一般民であるバイシャ、奴隷のスードラの四つと……ヴァルナにも入れない不可触賎民であるアチュート)によって支配されていた。日本のむかしにあてはめてみるなら――士・農・工・商+穢多非人のイメージだ。
 すると奴隷の子は、死ぬまで奴隷だ。これでは救われない。だから「今世は無理だけど、ちゃんと奴隷をがんばれば来世に期待できるよ」というように輪廻転生(という考えかた)は、ある意味、ガス抜きのシステムでもあったわけ


 これに敢然と立ち向かったのが釈尊の仏法。だって、輪廻転生のサイクルから解脱してしまうんだもの。その第一号者が釈尊自身なわけさ。


 だから最近、新興宗教や霊能者、占い師なんかが「お釈迦さまの生まれ変わり」なんていってるけど、これは「あり得ない」お話。だまされないようにしようぜ。