なぜだか――仏教の話をすると、論戦を挑んでこられるかたがいる。とりわけ新興宗教系のひとに多い。それも自分が信じる教典が絶対的に「いちばん」と信じ切ってのスタンスだから閉口することも(哀)。
そんな時は、相手に花を持たせ、とっとと引くことにしている。だって、ボクが仏教のお話をするのは、けっして知識比べじゃないからね。
あくまで、ボクという縁に触れて――少しでも精神世界に興味を持ち、仏教を学び、愛に気づきを持ってもらえれば……と思っているだけだから
ちなみに仏教では「愛」と呼ばず「慈悲(もしくは、悲)」という。
そして「愛」のほうは執着心として捉えられる。どちらかというと「愛情」の「情」のイメージだ。
インドに生まれ、中国地域などを経由し、その過程でさまざまな思想を吸収し昇華して日本に伝わった仏教は、たしかに高度な論理体系を持つ。
ボクが「生きかた哲学」だといっている所以だ。
同時に、いろんな理論理屈――それも、仏教のそれ(いろんな教典)でお互いの立場を主張し合うこともできる。その結果、多くの仏教宗派が覇を競い、論戦を展開している。ボクに論戦を挑んでこられるかたも、そのような感覚をお持ちなのだろう。でも残念ながら、ボクは論戦にあまり興味がない。
だから肩すかしをさせてもらう。だって信じ切っているひとにアンチテーゼを示すなんて、それこそ「火に油を注ぐ」ようなもの。ご本人が、いいなら、いいじゃないか。
ちなみにボクの好きな華厳経の思想に「事事無礙法界(じじむげほっかい)」というのがある。ある意味、この世の成り立ちそのものを表す言葉である。
分かりやすくたとえを挙げるなら――「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な松尾芭蕉の句がある。
これを「どこどこの池で」「蛙の種類は雨蛙で」「芭蕉の立ち位置は」なんてやったところで、なんの意味もない。極端な話、そこには芭蕉も蛙も水すらもない。ただただ、ポッチャ~ンという音が、宇宙の静寂を破っているだけのこと
つまり、ここでは、芭蕉も蛙も水も音も空気も……み~んな合一なのである。わたしとあなたとか、わたしと彼といった具合に分けることが不可能なのだ。
このことに気づけば、自ずと自分が「大悲(=愛そのもの)」であることを識る。ただ、それだけのことなのである。
一所懸命に学ぶことは大切である。
それは華厳経でも「理事無礙法界(りじむげほっかい)」として重要とされる。でも、そこで得られるのは「大智」であり、自利の域に留まってしまう。
そのさきにあるエネルギーの励起状態に変換するには「事事無礙法界」つまりジャンプ・インが必要なのだ。
言い換えれば、理論・理屈を積み重ねることは橋造りに似ている。ところが、この橋は、けっして向こう岸(彼岸)に届くことはない。
だから最後の最後は、ただ感じて「エイヤ~ッ」と飛翔するしかないのである。
そして飛翔して、あっち側にいってしまえばもう「そんなことは、どうでもいい」のである。執着の対象すら消失しているのだ。
分かりやすくいうなら「こだわりまくって、挙げ句に『手を放す』ということ」のために学ぶのだ。えっ「分かりやすくない」って?
じゃあ「なっちゃう」といおうか。あなたが自転車に乗る練習をしているとしよう。乗れないウチは「なんで、こんなに不安定なものに乗れるんだ?」と思うだろう。ところが乗れるようになった瞬間からは……つまり「なっちゃった」なら、それはあたりまえのことで「なんで乗れないヤツがいるんだ?」となる。
分かった? 自転車に乗れないあいだも、乗れるようになってからも――そこには、相変わらずの日常がある。でも、乗れるようになったあなたの日常は、乗れなかった時の日常と劇的にちがう。そう、変わったのは「あなた」のほうということだ。
ボクが「仏教は、生きかた哲学」といってるのは、そういうこと。自分が変われば世の中が変わるという、ある意味、相対性理論なんだ。