人間は死んだらどこへ行く? 釈尊の教えと金剛禅のスタンス | 身体からの悟りを目指して ~ 少林寺拳法

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我孫子道院 道院長のブログ

世間では、今日はクリスマス

にもかかわらず、ブログのテーマが重苦しいものが続いて申し訳ない……

昨日、件の大恩人の「お別れ会」があったので、もう一言だけ書き加えさせていただきたい


前回、「キリスト教的来世」云々という話をしたが、

仏教だって「輪廻転生」や「極楽浄土」を説いているのでは、と思う人も多いのではなかろうか?


しかし、ワタシが勉強した範囲では、

釈尊は、人が死後に存在するとも、しないとも説かなかった


大聖 釈尊をしても、死後の世界がどうなっているのかは、確実な根拠がなく、

(なにせ、死んでみたことがないのだから)

平たくいえば、「死後の世界はわからない」というのが本音だったと思われる


だから弟子たちに「人は死んだらどうなるのか」と訊ねられても、

一貫してその質問には答えなかったそうだ

(あえて説かなかったので、「無記」という)


つまり、「(どれだけ考えても)あるのかないのかわからない、あの世のことについてわずらうよりも、命の火が燃えている、今日このときを精一杯生きるほかない」というのが正しい釈尊の教えだったというわけだ


「わからぬことはわからない」「わからぬことは語らない」

こうした釈尊の考え方を知ったとき、ワタシは「そりゃそうだ」と深く納得し、

「根本仏教は信ずるに足る」と思うようになったのだ


そして、その釈尊の正しい教えと達磨大師の遺した行法を現代に生かすのが、我々の金剛禅の教えであるはずなので、「いま、どのよう生きるべきかを自覚して、実践に励むこと」こそが、少林寺拳法のもっとも重要な教えだと理解している……


それで思い出したのだが、

ワタシの愛読書のひとつ、司馬遼太郎の「国盗り物語」で、

斉藤道三が、のちの美濃の守護職、土岐頼芸から「人間は死んだらどこへゆく」と問われる場面があった

それに対し、道三は

「坊主に任せる、任せて考えぬ、これがサトリでござりまする」と答え、

「任せるだけか」と再度問われると

その“だけ”に、人間到達できれば、もはや大覚者でございます。死は坊主に任せる、任せて楽しく生を送る、それが達人の生き方というものでござりましょう」と返している


つくづく、達人になりたいものである


本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『108』