男子たる者の死(吉田松陰の死生観) | 身体からの悟りを目指して ~ 少林寺拳法

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我孫子道院 道院長のブログ

今年は3月に武専での同期生にして、この道の先達だったI道院長が急逝されてしまい、そして一昨日、大恩人が逝去されたこともあり、例年になく、人間の生と死について考える年になってしまった


ワタシは、幼年時代に池に落ちておぼれ、溺死しかけた経験があり、

その体験が下敷きになって、子供のとき、ふとしたきっかけで「人間は死んだらどうなるのか」「死後の世界はあるのか」と問いはじめてしまうと、怖くて怖くてたまらなくなった……


小学生のころ、母親はキリスト教の信者になり、その後熱心なクリスチャンになったので、ワタシにもキリスト教的来世と、来世のための現世の過ごし方について、いろいろお説教をしてくれるのだが、

それを素直に信じて、「死の恐怖」から開放されるほど、当時の私には知的素養もなければ、素直さもなく、楽天的な性格も持ち合わせていなかった……


長じてからも、立派な死生観などは確立されず、なんとなく考えないようにして、半ばごまかして生きているに過ぎない


その点、見習いたい思うのは、幕末の傑物、吉田松陰の死生観


松陰は、弟子の高杉晋作から、男子たる者の死生観について問われ、以下のように答えている


死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。

道尽き心安ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。


これはひとつの理想の悟り

ワタシも修行を通じて、少しでもこうした境地に近づきたい


来年は、もっと強い自分にならねば!



本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『108』