少林寺拳法の魅力は山ほどあって、とても一言では言い表すことはできないが、当然のことながら、技法の魅力は計り知れないものがある。
剛柔一体、変化即応の多彩な技法の数々は、10年20年と修行を積んでも、興味が増すばかりで尽きることがない。
少林寺拳法には六百数十種(!)にも及ぶ秘技があるといわれているが(正直数えたことはない)、
それらの技法を学ぶ順序は科目表によって定められていて、昇級・昇段するごとに次の段階の科目を修行することが許される。
そしてそのどれもが、合理的な身体操作、経脉の理をはじめとする力学的、生理学的な各種の理法を元に、小さな力で大きな効果を発揮する巧妙な技法なので、非常に知的好奇心が刺激される。
それは白帯の拳士や級拳士が習う科目でも例外でなく、
しかるがゆえに、いまより昇級したり、昇段したりすると、どんな妙技を教わることができるのだろう? とワクワクした経験が自分にもある。
でもだからといって、興味関心がより上の段階の科目にばかりにいってしまうと、なかなか思ったようには上達しない。
武道・武術の世界には「はじめに極意あり」という言葉がある。
一番最初に習うことに中に、じつはその流派の要諦・真諦が詰まっているものなのである。
たとえば、少林寺拳法で一番最初に習う「合掌礼」
これは、正中線(身体の中心を天地に貫く体軸)の意識を強化するのに非常に有効な『印』(ポーズ)であり、
柔法のコツである基準線のカタチもそのまま学べる仕組みになっている。
結手(構え)なども、あの姿勢をとるだけで、丹田を鍛える立派なトレーニングといえるので、
学べば学ぶほど、少林寺拳法の行としての完成度の高さには感心させられてしまう。
しかし、自分の若いときもそうだったが、モチベーションの高い時ほど、前のめりで先走り気味。
地に足のついた修行になっていないので、なかなか技が身につかない。
指導者や先輩方はそのことがよくわかっていらっしゃるので、何度も同じアドバイスをしてくださるのだが、
未熟なワタシは、もう何度も耳にしているので
「あ~、あれね」
という気持ちで、聞き流してしまう……。
ところが、修行者にとってこの「あ~、あれね」という考え方こそ、上達を妨げる曲者なのだ。
要は頭でわかっている気になっているだけで、その言葉と教えの意味するところがわかっていなかったというだけ。
言葉の上澄みだけが頭に入って、自分の身体、動きとの関わりが、どこかでプツンと切れていたというわけだ……。
だから、後日(数年後?)その教えと自分の身体との係わり合いが、何かの拍子に理解できた時、
「ああ、こういうことだったのか! もっと早く教えてくれればよかったのに~」と絶叫したくなるのだが、
偉大なる先達はすうっと前から同じことをおっしゃっていてくださっていたはずなのである。
開祖は
「級拳士の科目(技法)が本当に身についたら、君たちのかけがえのない財産になる」といい、
先輩方も「級拳士の技は、宝の山だ」とおっしゃっていたが、
ワタシにもようやくその言葉が実感できるようになってきた。
どの技芸にもいえることだろうが、
上級者とは、基本が上手い人のことを指す
(そういう意味では、ワタシもまだまだ修行中)
禅寺や少林寺拳法の道場(道院)の玄関に、よく「脚下照顧」と書いてある。
これは禅家の言葉で、「修行の第一歩は自分自身の足元を見つめなおすことから」という意味だ。
具体的には、履物を揃えるという行為で実践することになるのだが、同時に心の中で、これから修行を始めるにあたり、
「地に足がついているか」「基本をないがしろにしていないか」といったことを、再確認する瞬間にしたいものである。
極意体現の道は、小さなことの積み重ねこそが肝要だということを忘れてはならない…
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『106』