今月、ひとりの拳士が遠方へ転勤することになってしまった。
道院長をやっていて、新しい拳士が増えること、そして門下生が昇級、昇段し、成長してくれることは何よりの歓びだが、反対に何らかの理由で拳士が道場を離れていくのは、かなりさみしいものがある。
とくに今回転勤してしまうその拳士は、
ワタシが我孫子道院の道院長を引き継いで、最初に入門してきた第一期生の門下生で、
ワタシの下で白帯から有段者に育ってくれた第一号拳士のひとりだった……。
また、この時期に幹部拳士が抜けてしまうのは、道院にとってけっこう手痛いものがある。
(最長2年の期間限定の転勤とのことだが)
とはいえ、
門下生が、先生あるいは道場を選べるように、
指導者も門下生を選ぶことができるという意味で、両者は平等であり、
指導者と門下生をつなぐものは“縁”しかない。
では、その“法縁”はどのぐらいの強さなのか?
人と人を結ぶ縁の強さでいうと、
親子の縁が一番強く、次に夫婦、兄弟、親友などが続く。
師弟関係も、それらに順ずる場合もあるが、少なくともやはり他人ではない。
だとすると、どのぐらいの距離感、“間合い”が適当なのか。
やはり「弟子」というぐらいなので、「弟の子」つまり指導者から見て、甥っ子、姪っ子に相当する関係が妥当なのではないだろうか。
道場には、ワタシより年配の拳士も通ってくるが、
何年も通ってきている少年部の拳士たちを見ていると、本当によそ様の子というより、甥っ子、姪っ子のように思えてくる。そういう意味では、筋のいい子もそうでない子も、一所懸命通ってくる子は、みんなかわいい。
我孫子道院には、小学校の低学年のときに入門し、高校、大学、専門学校などに進学しても、修行を続けている拳士が何人かいるが、幼少期から10年以上関わってきたこうした拳士たちは、受験等で一時道場を離れたとしても、決して縁が切れたとは思えない。
ただし、すべての門下生=弟子=「弟の子」かというと、そうでもない。
道場に通ってくる門下生は、どうやら「弟子」と「生徒」の二種類のタイプに分類できるようだ。
そしてそれは必ずしも修行年数とリンクしているわけではない……。
「弟子」と「生徒」を分かつもの。
これも結局のところ、縁の強さということになるのだろうか。
まさに釈尊が菩提樹の下で悟られた「すべてのものは縁によって生ずる」に帰結する。
ちなみに、ワタシ自身には、師と仰いでいる人が何名もいる。
少林寺拳法の師、学問の師、仕事の師、クルマの師……。
いずれも斯界の最高峰とも言える方々に教えを受けることができ、いつもお世話になっている。
他の事はともかく、その師運にだけはめぐまれてきた。
そして視点を変えてみると、師に恵まれていたように、いまは弟子にも恵まれている!
そう考えると、じつはワタシはけっこう運がいいオトコなのかもしれない!?
いや、運がいいに違いない。
そしてその運は、すべて縁に支えられている。
いまさらながら、一期一会の縁の尊さが身に染みてきた。
(「一期一会」は茶道の言葉として有名だが、もともとは禅の言葉)
少林寺拳法の指導者は
「有縁者の之を受くるを待つ」が基本姿勢。
ワタシがやらなければいけないことは、いつも道場の門戸を開いて、皆が来るのを待つこと。
そしてそれは現役拳士はもちろん、休眠拳士に対しても、いつでも戻ってこれるようにして、待っているつもりである。
(来年は開祖生誕100年の年。休眠拳士の皆さん、この機会に復帰して、一緒にお祝いいたしましょう)
先月は、道院長研修会などで不本意ながら道場を留守にしてしまう日が何日かあったが、
まずは自分が稽古を休まないようにするのが第一だ!
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『100』