きゃあ~
夕陽がきれい![]()
新年2日目、天王崎公園の夕陽
ココ
霞ケ浦から紫峰 筑波山が勇壮に![]()
天王崎公園にある八坂神社です![]()
神々しく夕陽に照らされる八坂神社![]()
毎年7月26日(土)と27日(日)
ココ
麻生祇園【馬出し祭】の神事が催されます
馬と神輿の勇壮な戦い![]()
うう~
すごい ド迫力なの
麻生藩主新庄氏の保護のもと約300年
伝承されている行方の奇祭です![]()
江戸時代から明治まで麻生を治めた
藩主新庄氏の居館兼藩政庁(麻生陣屋)
は、現在の行方市立麻生小学校の場所
にありました![]()
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ココ
“人の育成こそ財産”![]()
4代藩主直時からの教育重視を引き継ぎ
財政難の幕末期においても![]()
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麻生藩校『精義館』を設置し有能な
家臣たちの育成に努めたのでした![]()
直時は儒学を重んじ津久井俊庸(伊兵衛)
を儒役者として江戸藩邸において教授にあ
たらせるともに兵学についても講義させて
います![]()
7代藩主直詮(なおのり)は俊庸を麻生に
遣わし、郡宰(郡奉行)そして参政(用人)に
まで登用し、私邸では藩士の教育に当たら
せました
その子俊正も父の跡を継ぎ私邸
で教授にあたりました![]()
8代藩主直隆(なおたか)の代には老職
(家老)にまで取り立てられました。
『麻生日記書抜』の文化元年(1804)5月
の記事には、11代藩主直計(なおかず)
が若い藩主に向け文武奨励を説く記述が
あります
幕末期には対外的警固などの必要性から、
藩主や藩士の武芸に対する意識も高まり、
個人に任せていた学問修業から麻生藩と
しての教育制度を確立していく動きが見ら
れるようになります
嘉永元年(1848)4月に、吉田義輔(蘇寮)
に対し、江戸藩邸で儒役者として儒学を講じ
させ、私宅には稽古場(学問所)を貸与し教
育の充実にあたらせました。
その高弟伴鉄蔵(俊昭)にも麻生で家中の
子弟の教育係を命じ、更なる修業をさせて
9月には家臣に毎月4日、14日、24日の
月3度の学習会開催を命じさせました。
これが麻生藩の月並講釈と呼ばれる制度
の始まりとなりました。翌10月には早速
稽古場(剣槍柔教場)を会場に月並講釈が
実施されています![]()
麻生藩では、五常=仁・義・礼・知・信の道
を根本として、物事の道理をわきまえ言行
を真に慎むことを大切にしました![]()
家臣として学問をすることが万事の基本に
なるものとして儒学精神を藩士教育の土台
に据えていたのでした
この精神は代々藩主に引き継がれ15代
藩主直敬(なおたか)は廃藩直前となる
明治2年(1869)に麻生陣屋内に地坪
300坪、建坪50坪の藩校精義館
(せいぎかん)を建設させました![]()
武士のみならず・豪族や庄屋の子孫も
学んでいました
同年11月の吉日を選んで授業を開始![]()
職員は、総長1名、教頭1名、督学1名の
ほか、助教、小助教、得業生、給仕など
およそ10名が配属され、生徒数も70名
を超えていました。明治4年7月
の廃藩により精義館も短い役割を終えた
のでした
精義館の教育理念は、8月に定められた
学則により知ることができます。
神皇の道と四書五経など儒教の道の両方
を学ぶことが「精義」すなわち優れや道理
を得ることになるというものでした。
忠孝の節を知り歴史を学ぶことを学問の
内容としながら、学問を実用のものとして
職務と一致させることを理念としました。
精義館運営に当たっては、6月に規則を
設け、欠席を厳しく戒め無断欠席につい
ては大人子供問わず厳しい条件を課して
います![]()
教師へのあいさつも定められ出入りの
教官に対しては敬礼や一礼が義務付け
られています。そのほか賞罰制度を設け
学習意欲を喚起していました![]()
その精神を受け継いだのが・・・![]()
茨城県立麻生高等学校 ココ
昭和4年 1929年 3月1日 創立
茨城県立麻生中学校(県内最後の旧制中学)と
して,現在の麻生小学校の地に創立
卒業生は玉藻会を結成している![]()
卒業生には、各界の名士が多数![]()
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「建友玉藻会」の花植え奉仕活動ココ
進化している麻生高校
地球環境エコだっぺ修学旅行 ココ
中国の高校生と交流 ココ
上層武家住宅として県有形文化財指定
麻生藩 家老屋敷記念館
ココ
麻生藩13代藩主 新庄直彪
ココ
老中 松平和泉守を通し14代将軍
徳川家茂に焼きわかさぎを献上した
時、老中から礼状を頂きました![]()
エリザベス
忘れては いけないわ![]()
麻生藩校 精義館から伝えられた精神![]()
困難な時代でも人こそ宝![]()
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