あるスレッドで、高市を批判するひとが、こんなことを書いていた。「戦争がはじまれば、すぐに『赤紙』がきて、徴集される。戦場に駆り出される。戦って死ぬかもしれない」。これに対する高市支持派の反論が、とても「こわい」のである。
高市を批判するひとは、「現実を知らない。憲法を読んでいない」と言った上で、こう論理を展開する。
いまの日本には「赤紙」はない。したがって徴兵されない。自衛隊は志願制である。
憲法は、自衛隊の海外派兵を禁止している。法律も禁止している。
徴兵制を実施するにしろ、自衛隊を海外へ派兵するにしろ、法律改正が必要である。
憲法と法律を確かめろ。
開いた口がふさがらない、とは、このことである。
高市批判をしたひとは「戦争がはじまれば」という仮定で話している。それに対して高市支持派は「戦争は起きていない」という、いまの状態をもとに批判している。
たしかにいまは「赤紙」はない。自衛隊は「志願制」である。しかし、「戦争がはじまれば」状況が変わる。
戦争がはじまれば、国会で新法をめぐって議論している余裕があるとはかぎらない。
そのために、自民党は「非常事態条項」を盛り込んだ憲法をつくろうとしている。憲法を改正しようとしている。
自衛隊の「海外派兵」については、すでに「戦争法」で「集団的自衛権」を組み込んでいる。
いま問題になっている高市の「台湾有事」の問題も、その発言内容は「台湾有事の場合は、日本の存立の危機にあたるから、集団的自衛権を行使する」というものである。海外に(日本の領土、領海、領空以外に)自衛隊を出兵させるというものである。
すでに法律は改正されているし、つぎつぎに新しい法律ももくろまれている。スパイ防止法も、そのひとつだろう。
憲法があるから、自分は戦争に駆り出されない。その前提で、「台湾有事」のときは自衛隊を出兵させる、そして中国と戦う、という。
だれが?
自分だけ、戦争の「枠外」に置いて、戦争を見物する気持ちでいるらしい。前線に出兵しなければ、日本国内にいれば、自衛隊が自分を守ってくれると思っているようだ。
集団的自衛権は個別的自衛権とは違う。集団的自衛権は「日本が他のアジアの諸国と協力して、日本を自衛する権利」ではない。(多くのひとが、そう勘違いしている。今回取り上げた高市支持派も、そうかもしれない。)集団的自衛権とは、日本と同盟関係にある国が(その軍隊が)攻撃されたら、それを日本への攻撃ととらえ、攻撃を受けている国(軍隊)と集団で戦う、同盟国(軍)を護ることは、日本を自衛することにつながる。そのための権利である。
これは運用次第では、同盟国(軍)が日本からどれだけ離れていても、自衛隊の派兵を可能にしてしまう。だからこそ、「戦争法」と呼ぶのである。
高市支持派は、自分にとって都合のいいことだけを選択し、論理を組み立てる。そのとき、その論理のなかに、自分自身をぜったいに組み込まない。これが、おそろしい。
「戦争」だけではない。
今度の高市発言で、多くのひとが困っている。しかし、困っているひとのなかに、彼らは「絶対に」はいらない。外から、高市を支持するだけである。「中国人観光客が減ってよかった」(観光業で生計を立てているひとはこまる)「中国人が高級和牛、あわびが食えなくなっても、なにも困らない」(輸出で生計を立てているひとはこまる)。自分は困らないから、他人はどうなってもかまわない。
ぞっとする話である。
戦争がはじまって、建物が攻撃され、倒壊したとする。その建物のなかで苦しんでいるひとを見たとき、高市支持派は、どうするんだろうか。そんな壊れやすい建物に住んでいるのが悪い。攻撃に耐えられるところに住んでいないのが悪い。自己責任だ、と言うのではないか。
私は、もう老人である。ひとを助けることはできない。自分で逃げられるかどうかもわからない。だから、こう言う。「戦争を起こさないでほしい。戦争を起きないように、話し合いで、外交で、平和を守ってほしい」。