黄怒波『チョモランマのトゥンカル』について(メモ、その2) | 詩はどこにあるか

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 黄怒波『チョモランマのトゥンカル』の東京大学で「座談会」で、「私小説」ということばが、誰からだったか忘れてしまったが、飛び出した。私は、これに非常に驚いた。
 黄怒波(駱英)は詩人(文化人)であると同時に経済人。世界七大陸の最高峰に登頂したこと、南北両極に到達したことは本のカバーにも書いてある。田原の紹介で、駱英に会ったとき、その話を聞いていたのだが、私には「私小説」ということばは、一度として思い浮かばなかった。たぶん、日本で言う「私小説」ということばが指ししめす世界と、黄怒波が描いている世界とがあまりに違うからだろう。
 このことについて、田原が、会の最後の方で少し説明してくれた。そのとき田原は「こうたい小説」ということばをつかった。最初、私は、「固体小説(個体小説)(個人=私)」と考えていたのだが、どうも違う。身辺の周囲の、変わることのない生活のなかで、自分の生活をとおして自己告白、内面の葛藤を描く。そこでは、ストーリーは、あまり展開しない。それは日本の「私小説」であり、中国では「こうたい小説」と言う、と田原は説明したと思う。
 その説明では、「身辺の周囲の、変わることのない生活」というような定義が重要なのだろうと思う。そこに「視点」をおいて考えると「こうたい小説」は「恒態(?)小説」かもしれない。恒常的な状態、日常的な生活のあれこれを描く。
 これとは別のもの、あるいは逆(?)なものが中国の「私小説」になるかもしれない。個人が体験したことを、ダイナミックに展開する。
 このとき田原は、こんなことも言った。「私は、駱英のことをよく知っている。小説を読みながら、このことは、あのことを書いている云々」。つまり、駱英の「実体験」が小説のなかで、まるで(だれかが言ったことばを借りれば)ハリウッド映画映画のように展開している。
 ああ、なるほど。
 綿屋りさが「孫悟空」を例に引き、高橋睦朗が「もっと悪人でもよかったのではないか」というようなことを言ったのは、そういう「ストーリー」を中心にした「中国式私小説」を踏まえての発言だったのか。訳者の徳間佳信が作品を紹介するとき「通俗性」ということばをつかい、わざわざ「通俗性」というのは、中国語では「褒辞」であるといったのは、そういうことだったのか。ハリウッド映画みたいな「通俗性」と言うと、私の日本語の感覚では否定的な意味を持つが、大衆にわかりやすいダイナミックなストーリーという肯定的な意味になるのか。
 私以外のひとが「共有している感覚」を、私は欠いていた。
 しかし、田原が、わざわざ全員に向かって日本の私小説と中国の私小説は考え方が違うと付け加えたところを見ると、私だけが「誤解」していたということでもないのかもしれない。
 私がいま書いている文章は、あくまでも「こうたい小説」と田原が言ったことをもとに考え直したことである。

 で、その「恒態小説」ではない「中国式私小説」という点から見つめなおしていくと、この小説には、黄怒波(あるいは田原)には「わかりきったこと」があまりにも単純化されて書かれていて、それが「ドラマ」になっていないような気がする。経済戦争の、資金をめぐるやりとりが、そういう世界に関する知識をもちあわせていない私には、非常にわかりにくい。経済の仕組み、それから中国の企業のあり方(国営と個人の違い)をわかりやすく書いてくれればなあ、と思う。
 主人公・英甫の「黒幕(?)」に元官僚が登場するが、元官僚だけではなく、現職の官僚が絡んできて、資金をめぐるやりとりがあった方が「複雑」になる分、逆に「権力闘争」が見えやすくなるかもしれない。そして、その方が、現実の世界とシンクロするかもしれない。文革批判に通じることが書かれていることから、私は「こうたい小説」を、「抗体小説」とも一瞬考えて、田原の説明の前で、ひとりで混乱していたのだった。体制批判は書くのがむずかしいというような発言もあって、よけいにそんなことも思ったのだった。

 私がいま書いていることは、小説の感想ではないかもしれない。
 しかし、もう一度読み返すなら、そのときは、小説構造の「ダイナミズム」に焦点をあてて読んでみようという思いを忘れないために、ここに書いている。これから読むひとの、参考のために、とも思い書いている。

 追加。
 この小説には、「時間」が何度も何度も明示される。これは、「007」の何というシリーズだったか忘れたが、時限爆弾のタイマーを切るとき、その時間を刻む時計が映し出されるようで、はらはらどきどきを誘う。「007」では、タイマーが「007」表示で止まる。7秒前に、タイマーが解除され、爆発は起きない。そういう「効果」を生むかもしれない。そういう効果を狙って、黄怒波は書いているのかもしれない。
 この小説のクライマックスの部分は、北京の時間と、チョモランマの時間が分単位で書かれているので、まさにはらはらどきどき、なのだが。
 そうはわかっても、私は、少しつまずく。このことは、会場でも少し言ったのだが。
 私は福岡から東京へ行った。そうすると「時差」そのものはないが、光から感じる「体感時差」というものがある。東京は福岡より一時間夜が早い。早く暗くなる。
 北京とチョモランマでは、そういう「体感時差」というものは、ないのだろうか。「二〇一三年五月十九日午後五時」は北京とチョモランマで、まったく同じなのか。アクション映画なら、それでいいのだが、活字をとおしてストーリーを追うとき、私は、「デジタルな時間」(あるいは物理的時間)よりも、自分自身の「肉体時間(体感時間)」の方が気になる。
 これは、私の「読み方」であり、ほかのひとは関係がないかもしれないが、私は私のことばを「肉体」から切り離すことができないので,どうしても気になる。

 最後に。
 この小説は、会話が重要な位置を占めている。肉体の行動というよりも、ことばの行動が描かれている。ことばは、思考ではなく「アクション」として書かれている。そして、映画なら、俳優がいるから、そのことばがだれのことばかはすぐにわかるが、(アクションがだれのアクションであるか、すぐわかるように)、小説では、それが非常にわかりにくい。鍵括弧で「せりふ」がつづくところがある。
 その結果、最後の方、変な部分がある。
 英を最終的に助ける女・呉(私は、この人物が非常に重要だと考えている)が英の運転手・李と対話するシーン。(693ページ)

 李の顔が蒼白くなった。
「そう。警察署でも、どの友達なのか、しっかり説明してね。……ああ、もう一つ訊くわ」
「この数年、どうしてあなたは、いつもロケーターを持ってるの?」
「知らない。それは、俺とは関係ない!」
 李の唇が震え始めた。

 何度読み返しても「そう。」からはじまることばと「この数年、」からはじまることばは、ひとつづきである。これを話しているのは呉である。つまり、補足して書き直すと、

 李の顔が蒼白くなった。
(呉)「そう。警察署でも、どの友達なのか、しっかり説明してね。……ああ、もう一つ訊くわ。この数年、どうしてあなたは、いつもロケーターを持ってるの?」
(李)「知らない。それは、俺とは関係ない!」
 李の唇が震え始めた。

 となる。
 ほかにも、そういう部分があるかもしれない。黄怒波の小説が、「アクション映画」のようなダイナミックなストーリーを、「会話」を利用しながら展開することを狙ったものだとするなら、そのアクションに乱れがあっては、読者はたちどまって考えてしまうことになる。
 日本の「小説」のように、あれこれ煩悶している主人公につきあって、ああでもない、こうでもないと考えるものなら、それは、まあ、気にならないかもしれないが。