ターセム・シン監督「落下の王国」(★★★) | 詩はどこにあるか

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ターセム・シン監督「落下の王国」(★★★)(2025年11月22日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 ターセム・シン 撮影 コリン・ワトキンソン 衣装 石岡瑛子 出演 リー・ペイス

 まさか満席になるとは思っていなかったが、ほぼ満席。そして、そのことが、なぜかこの映画をつまらなく感じさせた。たぶん、私があまのじゃくなのだと思うが、この映画は100人座れる映画館なら、せいぜいが10人程度で見るとおもしろい映画である。1割の入り。すかすか。その「余白」の感じが、この映画には似合う。
 一種の「千夜一夜物語」の雰囲気がある。必要に迫られて、つぎつぎに「物語」を展開していく。違う結末を考えていたのだが、「それは嫌い」と言われれば、変えてしまう。ただ、楽しい(?)時間が過ぎていけばいい。つまり、ここにはストーリーはあっても、それは「必然」ではない。正確にいえば「語り手の内的必然」はない。「聞き手の必然」がある。「わがまま」がある。こういうときは、「余白」がたくさんある方がいい。自在に変更できる「余地」がある方がいい。
 とても美しい映像だが、その美しさは、たとえばコッポラの「ゴッド・ファザー」のような「濃密」な美しさではない。余分なものが共存する美しさではない。(マフィア自体が「余分」なものだから、それがあふれかえると、逆に不思議な美しさになる。)シンプルに、ただ見たいものだけが見える美しさが、この映画の特徴である。これは、映像を独り占めしたときに感じる喜びである。
 美術館へ行く。見たい絵の前にまっすぐに行く。ほかの客はまだ着ていない。多くのひとが来る前に、独り占めして、その美にひたる。
 あの感じだね。
 映画館は暗いから、べつに「ひとり」でなくてもいい。ぽつん、ぽつんと客がいる。だれとも何も言わず、じーっと見つめている。
 独り占めと同時に、どこか「孤独」な感じ。
 それに、この映画自体が「孤独」なのだ。主人公の「孤独」が反映された映画なのだ。脇役の少女の「さみしさ(病院に入院している不安)」が反映された映画なのだ。これを、ぎっしりとひとがつまった映画館で見ると、とても息苦しい。

 映画の最後に、キートンの映画のシーンがいくつか。あの、シンプルなスピード感を、カラーの場合はどうするか。色を限定する。余分なものを省き、「余白」を大きくする。ターセム・シンの「美学」を楽しむ映画である。