黄怒波『チョモランマのトゥンカル』(徳間佳信訳)(講談社エディトリアル、2025年06月10日発行)をめぐって、11月15日に東京大学で「座談会」のようなものが開かれた。田原が主催し、作者・黄怒波をはじめ、東大の阿部公彦、詩人・高橋睦朗、作家・綿矢りさ、翻訳者・徳間佳信、さらに韓国語の翻訳者(詩人)ハン・ソンリほか、新聞社や出版社の関係者などが参加した。
そのときの批評(感想?)が、私の感想とはあまりに違っていたので、私はびっくりしてしまった。私は、他人の批評(感想)をほとんど読まない。こんなふうに、まとまった形で多くのひとのことばを聞く機会がなかったので、ほとんど、ことばを失ってしまった、という感じ。
このときの内容は「北方文学」に発表になるそうなので、具体的には書かないが、多くのひとから、「山岳小説(登山小説)と経済小説があわさった感じ」「登場人物が多く、複雑だが、ダイナミックなので映画化するとおもしろい」(すでに映画化、ドラマ化の企画も進んでいるということだった)「主人公がもっと悪人でもよかったのでは」(悪の魅力があるとよりおもしろくなる)という声が聞かれた。「主人公は作者そのもの、私小説ではないのか」という指摘もあった。
私は、すでにブログで書いたが、この小説は、「中国人の思想(思考)」そのものを具現化していると思う。私の「偏見」なのだが、中国の思想(思考)の基本は「対構造」である。一では不安定、二になる(対になる)と安定する。あるいは世界が完結する。三以上は無限大で、四でも五でも十でも同じ。対に一が加わったとき、安定した構造が破られ、無限にひろがる運動が展開される。
この小説も、そういう風に読むことができる。
訳者・徳間のレジメによれば、主人公・英甫(インプー)は葉生(イエシャン)は都市開発の利益をめぐって対立している。ふたりの背後には、元官僚の斉延安(英側)と呉鉄兵(葉側)がいて、その配下にはまた、斉の娘、呉の息子が資金提供のファンドを運営している。資金問題から苦境に陥った英は、英を陥れようとする葉から逃れるために、チョモランマ登頂に向かっているのだが、そこで遭難しかかっている。英が死ねば、再開発をめぐる「利益」はどこにころがりこむか。みんなが、それを自分のものに使用として画策している、というのだが。(徳間は違った風に説明するかもしれないが、私には、そう要約しているように見えた。)
しかし、私の見方では、葉は英の便宜上の「対」であって、ほんとうの運動は、英対葉ではない。英の背後で対立しているのは、斉と呉である。葉は斉と呉を引っ張りだすための「補助線」。斉も呉も、簡単にいえば、英を殺し、利益を自分のものにしようとしている。(そのために、斉も呉も、それぞれの娘、息子のファンドを、英のかかわる都市開発に組み込ませている。)もちろん英と斉が結びつき呉(葉)を蹴落とす、あるいは英を殺し、同時に斉を蹴落とせば呉と葉が利益を独占できるのだが、葉はそういう表面上の対立を描き出すための方便であって、この小説の運動のエネルギーになってはいない。つまり、斉と呉は、直接的には経済戦争で戦わない。英さえも、ストーリーの「補助線」といえるのである。
斉と呉には、もう一つの「第三の存在」が関係している。ここに「対」を超える激しい運動の「原点」がある。斉と呉の間には、女がいる。しかも、この女には中国の歴史が関係している。現在は、過去から逃げることはできない。過去の罪は「原罪」となって、現在をつきやぶる、と書いてしまうと「駄洒落」みたいだが、実際に、この小説を突き動かしているのは、それなのだ。
斉と呉のふたりは「文革」の時代に、ひとりの少女をめぐって三角関係にあった。「文革」の時代、その少女は、彼らの学校の教師を批判し、自殺に追い込んでしまう。少女の行動が教師を自殺に追い込んでしまう。彼女は、そのことについて罪の意識を持っている。これが、同時に斉と呉にも影響する。その少女は、草原が火事になったとき、現場から逃げ出さず、炎にまかれて自殺してしまう。彼女は、教師を死に追いやったことに対する「罪」の意識に苦しんでいた。
そのことが、斉と呉を対立させる。なぜ、救えなかったのか。このあたりのあれこれが、少女の残した三枚の絵(ここでも三が登場する)をめぐって展開する。その三枚の絵には、実は、コピーがあり、原画は斉、コピーは呉が持っている。(コピーは呉が描いたもの。)二人は、英をめぐって争う前に、少女をめぐって争っていた。その争いが、「文革」のしこりが、英という現実のなかで再燃している。少女は死んでしまうが、どちらかというと英の方を選んでいる。(これは、あとで登場するもうひとりの女の伏線である。)座談会では話題にならなかったが、ここが小説のいちばんおもしろい部分である。斉も呉も、そして死んでしまう少女も生き生きとしている。「情」が動いている。その「情」は「理」をめぐることばになって展開することもある。(情と理という対が、その展開のなかでは、美しい形に結晶している。このときのふたりのやりとり、そのことばには「語り、つまりストーリー」があり、人格が浮かび上がる具合になっている。)
さて、自殺した少女のほかに、もうひとりのキーパーソンの少女(漢字があるのだが、私のワープロでは表記できないので、少女としておく)が関与してくる。「対」を破る「三(第三者)」が消えたとき、そこに別の「三」が関与してきて、物語を突き動かす。ドラマを展開する力になる。自殺した教師には娘がいた。その娘が生きていて英の窮地を救う活躍をする。(斉と呉の動き、英の暗殺?を許さない。)チョモランマに逃走する以前、英は南米・アルゼンチンに逃走していたときがある。賊に金と命を奪われそうになったとき、その少女(このときは、すでにおとな)は英のもっていた金を湖に捨てる。無一文にすることで、賊の狙いをはぐらかし、英を解放させる。英は「自由」を手に入れる。(ほんとうは、もっと複雑なのだが、うるさければ省略する。)この女が、最終的に、英を中心とした経済闘争を解決に導く。彼女の行動が、全てを解決する。斉も呉も死んでしまい、英が残る。原野で火事にまかれる形で自殺した少女が斉(英側)を選んだように、教師の娘は英を選ぶのである。自殺した少女が斉を選んだのは、いわば「伏線」である。で、この英を助けた女は、実は、英のこどもを生んでいた。英は知らなかったが「家族」があったのである。斉と呉の「対」を破壊することで、英と女は「対」になり、その「対」はこどもを含む「家族」になる。(家族は、「三」だが、それはあたらしい安定である。もっとも、英も女も、その「家族」の形におさまるのではないが。)
先に、中国の安定、運動の基本は二まで、三を超えると無限になる。収拾がつかなくなる、というようなことを書いたが、三以上は「家族」になることで安定する。家族は、男と女の対に、そのこどもが加わること(三以上になること)でより安定する。ここにも中国の基本的な「思想」があると思う。
この「家族」ということばは、英が最後につかみとる境地、山に登ったものはみんな家族だという形で書かれている。(これは、すでにブログで書いた。)そして、この「家族」ということばを中心にして、英の活動(行動)を見ていくとき、黄怒波が小説の舞台を経済戦争(北京)だけではなく、チョモランマに求めた理由がわかる。英は、北京では「家族」をもたなかった。だれの家族でもなく、孤独だった。しかし、チョモランマでは狼の保護を中心にして、住民と「家族」になっている。チョモランマの自然と「家族」になっている。さらには中国側だけではなく、ネパール側のシェルパーとも「家族」になっている。「家族」だからこそ、ネパールのシェルパーは法を侵しててでも、英を救う。そして、救ったことを自慢もしない。「家族」が「家族」を助けるだけなのだから。
英は、経済戦争では「家族」をつくろうとはしない。彼を窮地からすくった中学教師の娘には、英のこどもがいるが、英は彼女とは「家族」になることを選ばない。彼が選んだのは、チョモランマでハゲタカの保護をしている女である。英は、狼の保護をしている。ハゲタカ対狼という「対」がここに隠れている。狼とハゲタカは、ある意味では「敵」なのだが、チョモランマという「場」は、またその「敵」の「家庭」でもある。もっとも、英は、ここでも女と「家族」になることを選択するわけではないが。
そう読み進んでくると、中学教師の娘は、英を経済戦争から救い、自然のなかにかえすという運動を突き動かしてきたと思える。この雄大な自然と人間の共存は、これは何か、漢詩の悠久の自然のなかで生きる中国詩人を連想させる。
少し後戻りする形で、「対構造」について、「漢詩の悠久の自然」という点から見つめなおしてみる。
東大で開かれた会合では、「経済小説」と「登山小説(山岳小説)」という形の「対」が話題になったが、「登山小説(山岳小説)」をチョモランマ登頂という形ではなく、もう少し広げて「自然/そこで暮らす人々」ととらえ、「経済小説」の方も「都会/都会で暮らす人々」という形で「対」をみつめなおすとどうだろう。「自然/そこで暮らす人々」と英の関係は、後半でさまざまな形で展開されている。
都会では、英はたしかに経済戦争を生きており、周囲のひとと戦っているのだが、チョモランマではどうか。彼は、だれとも戦っていない。彼を殺害しようとするひととは必然的に戦う形になるが、そのほかの部分では、そこに生活しているひとと共存している。そこにある「自然」を守ろうとしている。狼の保護がそのひとつの運動だし、国境を超えたネパール側では、貧しい少女たちを救う運動をしている。(このことが、英のいのちを救うことにもなる。)英の「夢」は、「都会」で成功することではなく、「自然」のなかで自然と共生し、漢詩の詩人たちが手に入れたような「自然と人間との共存」という自由なのではないのか。
この小説の最後の一行は、
そこには鳥葬台があるのを英甫は知っていた。
である。死んだあと鳥に食べられて、自由になる(人間から解放される)という夢が、彼の究極の求めているものだとしたら、やはりそこには、何か中国の漢詩の世界に通じる精神が動いているように見える。
アルゼンチンで英が「自由」になれたのは、そして生き延びることができ鉈のは、先に書いたように英が大金を捨てたからである。金では手に入らない自由が、金を捨てることで手に入る。この「論理」というか、「理想」葉、私には漢詩に描かれている「自由(人間性の回復)」に通じるように感じられる。
私には、最初から最後まで、私が想像してしまう「中国人」が「対」と「対を突き破る第三の存在」と出会いながら、運動しているように見える。
映画化の話題のとき、まるでトム・クルーズの主演するアクション映画(登山)と経済戦争の組み合わせのようなことが語られたが、映画が大好きな私なら、絶対に、中学教師の娘の「敵討ち」をテーマにする。英は、いわば狂言回しの役である。英がいないと映画(ドラマ)は展開しないが、そのドラマを支えているのは、文革「原罪」、それへの反撃(なんといっても母を自殺させた男が二人とも自殺する、少女はすでに自殺している)への情念(怒り/正義)である。チョモランマ頂上近くで、死と向き合い苦闘する英は「現実」であるが、それを主にして展開するのではなく、「経済戦争(北京の英とその周辺の人間との闘い)」と「チョモランマ周辺の自然(英と周辺の人間の平和交流)」を対比させながら、英が最終的に何を選ぶかをとおして、英の人間性を浮かび上がらせるとおもしろいと思う。そのためには、自殺した教師の娘の行動が鍵になる。英とその少女を向き合わせ、対にする。斉と呉という「対」が、娘の母・教師が自殺したように、自殺によって消え去るとき、英と女の新しい「対」が浮かび上がる。これならおもしろいと思う。(最後の「鳥葬」へのあこがれは、そのときは抒情的すぎて、ドラマを弱めるかもしれない。女が英にこどもを紹介するところまでで映画は完結させたい、と私は思う。)