読売新聞11月11日の朝刊を読んで。 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 一面の連載「AI近未来②」。見出しに「『純・中国産』世界に衝撃」。記事は、引用しなくても想像できる。中国のAIがアメリカの(そして世界の)予想を上回る高性能のもので、アメリカが大慌てしている、というもの。もちろん、日本も大慌てしているだろうが、そこまでは書いてないだろう。アメリカ任せだからね、日本は。
 で、思うことなのだが。
 「強い国」を高市は口にするが、この金が支配する世界で「強い国」というのは、軍事力ではなく、金を稼ぐことができる技術を開発できる国なのである。中国は、AIでアメリカを上回ったのである。世界に衝撃というが、それはアメリカ・日本に衝撃なのであって、アフリカやその他の、いわゆるグローバルサウスにとっては衝撃ではなく「朗報」だろう。アメリカに頼らなくてもAIを利用できるのだ。
 で、ここからである。私が書きたいのは。
 高い技術を生み出すために必要なのは「学問」の力、「学力」である。つまり「教育」が大切なのだ。
 日本国憲法には、国民の義務として、納税、労働、教育が書かれている。教育(学問の力)がなければ新しい何かを生み出すことはできず、社会はよくなっていかない。新しいものを生み出し続けるためには、学問が必要である。それは、常に、過去をふりかえり、過去や現在を変革していくということである。別なことばで言えば、「批判する力」が学問(教育)の力である。
 日本の政治は、この「批判」を封じ込めることに必死になっている。ここからは、何も生まれない。「批判」とは、戦うことである。そして、どんなものでも戦わない限り、強く離れない。思想、学問は、常に戦うことで強くなる。「強い国」とは、教育(学問)によって現在と戦うことができる国のことである。
 トマホークをいくら買ってみても、アメリカの核爆弾の傘の下にいくら隠れてみたって、「学問」(新しいものを生み出す力)は育たない。どうせつかえるはずがない核やトマホークなんかに金をかけずに、「教育」にこそ金をかけるべきだろう。
 私は(私の家は)貧乏で、「本を買って」と言うこともできなかったが、そして、私はぜんぜん勉強というものをしてこなかったが、いまになって、どんなにわがままであってもいいから「勉強がしたい、本を買って」と親に言うべきだったと反省している。
 世の中には、人類の遺産(先人が残してくれた貴重なことば)が無限にある。私は、その何ひとつをも読んでいない。そのことが、とても残念。いまは、一言でも、一ページも読みたいとだけ思っている。
 読売新聞の記事とは離れてしまうが、考えたのは、そういうことだった。